<出会い>に学ぶ生き方の極意

No.17 ~辛い少年期の恩師と50年後に再会、恩返しの本作り~

No.17 ~辛い少年期の恩師と50年後に再会、恩返しの本作り~back_18_00

テレビドラマを見て感涙やまず

 ここ数年来、テレビは見ないことにしている。視力の衰えもあるが、何ともくだらない番組ばかりで、時間を割くに値しない。それでも文字放送のニュースだけは丹念に見る。

 テレビ放送を忌避した一因には、どことなく思想的背景の漂う筑紫哲也キャスター・久米宏キャスターの、偏見に満ちた報道に嫌気が差したせいもある。自己主張は構わないが、どうせなら確信犯的に報道してくれれば、視聴する側も反論できる。

 テレビ嫌いで通っているが、1月4日夜に放送された島田洋七氏原作のドラマ「佐賀のがばいばあちゃん」は、最初から最後まで見続けた。原作が270万部も売れて前評判も良く、読了。感動していたからだ。

 ドラマそのものの出来は秀逸ではないと思うが、私自身の少年期と重なり合う場面・部分も多く、終戦直後の辛かった時代を思い起こしながら、涙が止まらなかった。

 父は太平洋戦争で戦死。母とは事情があって別れて暮らし、私は8歳で郷里の祖父母に預けられた。昭和20年3月から中学卒業までの多感な7年間、祖父母の元で育てられた。

 洋七君風に表現すれば、私の場合は「がばいじいちゃん」である。顧みれば、想像を絶する苛酷な時代であったが、決して辛くはなかった。

 食べる物や看る物がないのは当たり前。決して貧乏だからではない。つましい暮らしが習慣になっていたからだ。それに貧富と関係なく、集落の人々の暮らしは皆同じだった。

 子供も大人と同様、朝早くから夜遅くまで腹をすかせて働き通した。

60年前を鮮明に思い出し感慨

 ドラマの中で特に涙したのは、母に寄せる恋慕と教師の思いやり…。いつの間にか慣れていったが、参観日に誰も来てくれないのは寂しい。

 今では過疎になって小学校全児童で22名だが、当時は一クラス40名を超えていた。参観に来る保護者も半端ではない。母は参観日も運動会も、ほぼ約束を破った。しかし、事情が分かっているだけに、寂しかったが、恨みに思ったことはない。

 運動会に保護者が来なければ、ドラマと同様に教室で昼食を取る。

 外では、お祭り気分で華美でないがご馳走を、親子だんらん輪になって楽しむ情景。わが家の弁当は下半分が麦飯で、上に白いご飯を薄く垂ねてある。おかずは梅干しとかまぼこ少々、加えて、ゆで卵の輪切り。

 それだけでも、いつもとは違っていて、おいしく嬉しかった。

 ドラマでは先生が急に腹痛を起こしたふりをして、洋七君と弁当を交換するシーンがある。私も同じような経験が度々あった。弁当の交換ではなく、先生は卵焼きや銀シヤリを持ってきて「食べきれんから」と言って、弁当箱に載せてくれた。

 中学校に進んでも、全く状況は変わらない。母は引き続き広島市内で働き、仕送りを続けてもらった。量は多少増えたが、相変わらず麦飯と漬物、それに味噌汁の食事…。

 大半の生徒は中学生になっても、いつも腹をすかせていた。そんなときは集団で教師の家に押し掛ける。豊かでない家計の中で、先生ご夫妻はニコニコしながら、おにぎりをたらふく食べさせてくれた。そのため先生宅は夕食を抜きにされただろうと想像できる。そんな時代だった。

 その恩師は、佐々木敢吾先生。陸軍航空隊出身で気鋭の20代教師。

 当時から半世紀余の歳月を経て再会でき、ご恩返しの機会に恵まれるとは、神ならぬ身の知る由もない。

 洋七氏はお笑いコンビ 「B&B」として華々しくデビュー。漫才ブームにも乗り、一世を風靡していく。

 ところで、彼は昭和25年の生まれだから「佐賀のがばいばあちゃん」の物語は、昭和33年から8年間。当時の時代背景から考証しても、いささか違うように思う。

 それはともかくドラマの放映中、約60年前にタイムスリップ。懐かしくも感慨深い時間を味わえた。

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大仕事を成し遂げて、満面の笑みを浮かべる
恩師の佐々木敢吾先生(現在85歳)

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佐々木敢吾先生著
「ふるさとの伝承」

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島田洋七著
「佐賀のがばいばあちゃん」

「ふるさとの伝承」出版に協力

 さて平成16年6月、分厚い原稿を手にして佐々木先生がわが家を訪問くださったではないか。中学卒業後、たまに同窓会などで出会う程度で無縁に近い間柄になっていた。

 じっくり向き合って話し込んだのは、実に53年ぶり。「佐賀のがばいばあちゃん」の初版を読んでいただけに、洋七氏の少年時代と重ね合わせて、昔話にも花が咲いた。

 恩師は再会時、既に82歳。白髭をたくわえて、古武士を彷彿させる風貌。中学教師を定年退職後の約20年間を、郷土史の研究に打ち込んでおられた。一応の成果があり、本にして後世に残したい– と熱望。

 ぜひ出版は君の手で– と懇請されたのがご来訪の目的。こつこつと資料を集め、現地を踏査し、古老の話などをまとめていったという。

 私は時折、雑誌などに拙文を寄稿しているものの、本格的な本作りなどの経験は乏しく、編集・出版の分野は全く不案内である。突然のお申し出に戸惑ったが、恩師からたってのご依頼だけに、光栄で嬉しくもあり、断る理由も見つからない。

 出版の趣旨・目的も十分理解できむしろ郷里には不可欠の歴史書だ。幸い、編集・出版に精通する畏友も全面協力してくれるという。身の程知らずながらも、お引き受けした。

 少年時代、飢えを凌がせていただいたご恩返しに絶好のチャンスだ。

恩師と畏友の二人三脚で大仕事

 わが故郷は、弥生時代の中期以降相当な文化レベルの生活を営んで– などが、発掘された佐久良遺跡、史料などからも伺い知れる。

 単なる郷土史ではなく歴史書として上梓する方針だけに、あらためて内容の精査、新史実の掘り起こし、歴史的な裏付けなど、恩師と畏友の二人三脚で、気の遠くなりそうな大作業となる。やがて何事にも手を抜かないご両人の熱意と執念で、本書は品格ある史書に仕上がり、立派-- と各方面からも高い評価を得た。

 毛利一族の研究第一人老である広島県立大学の秋山伸隆教授から、絶賛に近い序文を寄稿いただけただけでも、本書の意義と価値が高いことを裏付けている。協力とはいえ、私は単なる走り使いの役割に徹した。

 「ふるさとの伝承」と「佐賀のがばいばあちゃん」は、一見して何の脈絡もないのだが、私にとっては太く結び付く。つましい暮らしと幸せ、ひたむきさなど共通点も数多い。

 恩師の著作からは、二千年に及ぶ歴史を検証しながら、日本人の生き方の原点も数限りなく教えられた。あらためて己の生きぎまを自戒…。

 辛かった少年期に恩師と出会わなかったら、おそらく次代に伝える「ふるさとの伝承」という大切な本作りに、ご縁さえなかったに違いない