<出会い>に学ぶ生き方の極意

No.14 ~不思議なご縁に導かれ61年目に親孝行の献花~

No.14 ~不思議なご縁に導かれ61年目に親孝行の献花~back_15_00

日本国は戦争など願うはずない

 いきなり生臭い話で恐縮だが、5年半前に「自民党をぶっ壊す」と叫んで登場した小泉純一郎サプライズ内閣が、公約通り日本の政治システムを根底から覆して退陣した。歴代3位にランクされる異例の長期政権として、毀誉褒貶はあるものの日本の政治史に大きな足跡を残した。

 続いて若い安倍晋三内閣が、腰骨をしっかり立てた政策を掲げ誕生した。政治には門外漢だが、破壊された跡地を整地して、新しい日本を築く希望の見える新政権として歓迎している。老害のかけらも見えないのが、私には何とも好ましい。

 安倍内閣を評して、口達者な田中真紀子衆議院議員は、衆議院予算委員会で代表質問に立ち「小さな子供がいたずらで大人の靴を履いて道路に出てきた印象。しかも右へ右へと歩くので危なっかしい」と毒舌のし放題。テレビで見る限り、その態度も、論調、口調も下劣極まりない。一国の総理に対して失礼であろう。

 社民党の福島瑞穂党首は、新内閣の印象を聞かれ「戦争をする内閣」と、持論というよりも偏見的な口癖で切って捨てた。政策の一環として憲法改正を掲げれば、即、戦争につなげるのは短絡的で幼稚な論理だ。

 戦後61年。大きな犠牲を払って平和の尊さを知った日本が、好んで戦争など願うはずはない。いくら福島氏や極左勢力が根拠のない論理で安倍内閣を批判しても、日本には戦争賛成の勢力など存在しない事実を国民は知っている。為にする発言など、嘲笑する程度ではないか。

 日本があの悲惨な戦争を繰り返さないことは、半世紀を超える足跡により、はっきりと証明されている。

呉海軍墓地に英霊3万6千余柱

 広島県呉市に平成17年からオープンした「大和ミュージアム」。来館者が引きも切らず、平日も賑わっている。とりわけ、20分の1の大きさに再現された不沈戦艦「大和」の精巧なモデルが人気の中心だ。

 知名度の高い戦艦「大和」は太平洋戦争敗戦の象徴として、戦争を知らない若い世代層にも広まっている。

 しかし終戦直前、「大和」と共に沖縄特攻作戦に参戦した第二艦隊9隻の運命は、歴史の表側に登場しないし、ほとんど語られてもいない。

 沖縄特攻作戦は、「大和」を旗艦として、巡洋艦1隻、駆逐艦8隻の計10隻の編隊で展開された。

 私の父は、第二艦隊所属の駆逐艦「浜風」の機関長として従軍したが、米軍機から投下された魚雷の命中で艦が沈没、戦死した。昭和20年4月7日12時48分という。

 呉市長迫町の「呉海軍墓地」には「大和」など、太平洋戦争で散った90隻の慰霊碑群が立ち、戦争の残酷・悲惨さを物語る。合祀されている英霊は、3万6千余柱に達する。

 私は小学校3年まで海軍墓地に近い呉市東鹿田町に住み、長迫小学校で学んだ。腕白少年時代の思い出多い場所。それだけに熟知しており、家族と一緒にしばしば海軍墓地にお参りし、母校も訪問している。

 毎年9月23日には「呉海軍墓地合同追悼式」が挙行され、平成18年が36回目だった。広島県知事、呉市長、国会議員を含め、生存される元乗組員や遺族など関係者が二千余人も参加し、英霊に対して不戦の誓いと哀悼の誠を棒げている。

back_15_01

父が最後を共にした駆逐艦「浜風」の雄姿

記憶はおぼろだが、天の啓示か

 今年も同じ日に、合同追悼式が営まれた。光栄にも、私は遺族代表として、献花の大役を与えられた。

 事そこに至るプロセスを振り返ってみると、目に見えない不思議な力に導かれた思いがしてならない。

 父の命目の4月7日、お盆の8月13日、それに合同追悼式の9月23日の毎年3回、私は呉海軍墓地の「浜風」慰霊牌に参拝している。

 父の戦死は「昭和20年4月7日南太平洋方面ニテ戦死ス」の公報で知らされた。文字通り紙切れ一枚。遺品もなく、戦死の状況も分からない。せめて父の最後を知りたいと願いながらも、何もせず時間のみ過ぎていた。親不幸の極みであろう。

 今年のお盆に参拝した時、たまたま「浜風」慰霊牌に備えてある一年間の参拝名簿をめくった。お参りされる方の大半が「遺族」と記した中に、「乗組員」と書き込んだ4人の住所・氏名があった。早速メモしたけれども、それっきり忘れていた。

 5日後の雨の朝、目覚めると、机の上に筆で宛名書きだけした4通のはがきがあった。それぞれ符丁もどきの文字で判読できず、身に覚えもなく考え込んでしまった。よく見ると一枚はかすかに「武田」と読める。あの時にメモした元乗組員の氏名かなと、しばらくして思い当たった。妻の話では、深夜なのに筆を持ち、机に向かう私を見たという。

back_15_02

英霊が眠る駆逐艦「浜風」の慰霊碑

 記憶はおぼろだが、すぐ消息を尋ねよ― という天の啓示と受け止め、即はがきでお便りをしたためた。

 「武田」とは「浜風」の砲術長だった武田光雄大尉で、元乗組員で組織する「浜風会」の会長と判明した。残念ながら今年一月にご他界。

 お一人だけ、病で動けないが― と、封書で「浜風」の最期を教えていただいた。呉市在住の松岡政秋さん。

 そのご縁から巡り巡って、遺族代表として献花の役目― という思いもかけない成り行きとなる。他のお二方からは、今も連絡がない。

父の死の瞬間を初めて知る

 合同追悼式では、初めて父の名が読み上げられた。「遺族代表、献花。駆逐艦・浜風機関長、海軍大尉木原京一郎殿長男、木屈伸雄殿」…。公式の場だけに、感無量となり一瞬、身体が硬直したような錯覚を覚える。何よりの親孝行にもなると思えた。

back_15_03

61年ぶりの親孝行 ~遺族代表で献花し、父と対面~

 式後の「浜風会」の席で、元乗組員で父の部下だった機関部下士官・梶原茂さん(兵庫県在住)に出会う。

 そして、「魚雷が機関部に命中、父が吹き飛んでいった」という情景を、遠くから目撃した梶原さんから初めて事細かに聞くことができた。

 そのむごたらしい父の姿・有様は、筆舌に尽くしがたく、とうてい詳細をここに記す

気になれない。

 梶原さんは海に投げ出され、波間で漂いながら「大和」が轟沈する瞬間を目撃し、絶望したという。「大和」は絶対に沈まない、必ず助けてくれる― と信じて海中にいた人たちの気持ちは察して余りある。どの艦も薩摩・大隈半島の西方沖に眠る。

 浜風の乗組員356名。内訳は戦死100名、生存256名、うち重傷11名。梶原さんは全身火傷を負う重傷だが、九死に一生を得た。

 戦後を生き抜いて来て、83歳。骨の髄まで平和の有り難さを痛感しているという。決して戦争があってはならないし、国家による人殺しは許されぬ犯罪だ- と力説された。

 小泉首相(当時)の靖国神社参拝が戦争につながる― と、一部の勢力やマスコミは批判していた。

 だが、英霊に対して心から哀悼し、不戦の誓いを固めることは、今、平和な日々を過ごしている日本国民すべての責務と思えるのだが…