親子農業体験塾『志路・竹の子学園物語』

①高齢者の生きがいと地域の教育力再生

愚問愚答

文部科学省が示した学校教育の外部評価制度が推進され、保護者や地域の世話役が教育現場に口を挟む機会を与えられた。文科省の狙いは定かでないが、外部圧力で教師たちが再び迷走し始めている。

広島市内の学校協力者会議の席上、「スポーツが盛んになったのは結構だが、その分だけ子どもの勉強時間が奪われる。スポーツと勉強の両立について学校はどう考えているのか」と保護者から詰問調で質問があった。

「その間いに対してはノーコメント」と教師は両腕で×マークを作って答えた。

保護者の質問もくだらないが、教師の返答も無責任極まる。スポーツを優先させるか、それとも勉強を第一と考えるか、はたまた両立を望むか、それは親の責任で決めてもらいたい— と簡潔に答えれば済むことだ。中には子どもの躾まで学校側に責任を求める役立たずの親も少なくない。それに対して大抵の場合、学校側はへっぴり腰であいまいな対応でお茶を濁す。これでは学校教育を下支えする協力者会議の役割にはほど遠い。

2002年4月、「知識・情報を得るだけではなく、自分で考え、創造し、表現する能力が一層重視されなければならない」という素晴らしい理念を掲げて『ゆとり教育』がスタートした。「ゆとり」という表現が災いしたのか、子どもは勉強しなくなり、親の大半は放任した。責任放棄といって過言ではない。

もともと『ゆとり教育』は、学校と家庭、それに地域社会がセットになって実効があがる—と中央教育審議会は答申している。教師の情熱に衰えはないのか。家庭教育力の復活に問題はないのか。地域社会の教育機能に疑問はなかったのか。

求められる生活体験の詰め込み

先述のスポーツ問答と同様に「子どもが遊んでばかりで勉強しない」と嘆く親は多い。そのあげく「勉強しろ!塾へ行け!」と尻を叩かれる子どもらはたまったものではない。学力低下を危惧して再び詰め込み教育を進めようとする風潮の中で、親の叱咤激励はますます拍車がかかってきた。OECD(経済協力開発機構)の調査(PISA)で「日本の子どもたちの学力が著しく低下した」と繰り返し指摘されたからだ。PISAが指摘したのは「知識の量」ではあるまい。結論を先に言えば「学習する能力の低下」ではなかろうか。問題解決能力、コミュニケーション能力、生きる自信など、詰め込み教育の教科では得られない能力が求められている。

いま必要なのは「生活体験の詰め込み」である。再び競争原理を教育の場に持ち込むのは、子どもの将来を考えると疑問だ。子ども自身の意志で「競う」のは大歓迎だが、教育行政の方針で「競わせる」のは大きな誤りだ。スポーツで心や体を鍛えるのはいい。学習塾での学びを否定するものではない。しかし、今の子どもらに欠落しているのは、「生活体験」である。自然に包まれて生活体験を積めば、新鮮な驚きや新しい発見の機会に恵まれ、その体験はやがて子どもらの勉強に取り組む意欲と直結するに違いない。その結果として「競争心」を他から強いられず自ら育て、学力アップにつながると確信している。

その生活体験の場を提供するのが地域社会の教育機能であり、子どもの秘められた能力を開花させるのが親の家庭教育力である

自然は学び取る能力を与える

2009年11月、親子農業体験塾『志路・竹の子学園』は、秋雨に濡れながら6回目の修了式を迎えた。幼稚園年長組から小学校6年生までの塾生24名は、フィナーレで手に持った鮮やかな風船をねずみいろの空に向かって放った。風船は塾生親子たちの夢を乗せてゆっくり空へ舞い上がっていった。1年生で入塾して6年間、たくましく育った3名は後輩たちの拍手を全身に浴び、巣立っていった。

農業体験塾は『ゆとり教育』の欠陥を補い、地域社会の学習機能を再生するための計画で、2004年4月、1年間の試行期間を置いて、集落の高齢者グループの支援でスタートした。

当初はわずか750坪の田畑のみで、入塾式は農道脇の空き地で15組の親子65名で開いた。いまでは協力グループの支援で使用総面積は5000坪におよび、休憩室、キッチン棟、ミニ運動場、800メートルの遊歩道、自然を利用した公園、仮設トイレまで備えたステージになった。春には200本の桜が子どもたちを迎える自然の大舞台が整えられた。

これからの社会を支えるのは高齢者で、しかも結びつきは金銭ではなく好みや趣向、それに価値観の共有である— と堺屋太一さんは述べている。高齢者たちはみんな「金持ち」「知恵持ち」「時間持ち」だ。放っておいては宝の持ち腐れになる。「子どもの教育」「高齢者の生きがい」「過疎の活性化」「都市と農村の交流」を目的とし、?農園管理・整備に要する労力の無償提供、行政の助成金辞退、基本経費は参加者負担という自主・自立の原則により、堺屋理論が実証される形となった。

土に親しみ、楽しく農作物を育てながら、自然の不思議や有り難さを学ぷ。親はわが子の素晴らしさを知り、子どもは普段の暮らしでは得られない親との絆を発見する。日々の活動の中で高学年の塾生は低学年の子どもらを思いやり、いたわる。小さい子は体験を通して大きい子を尊敬し、信頼する。いつのまにか社会の規範を身につけている。

高齢者たちは若い親子からエネルギーを与えられながら、失われた日本の素晴らしさを次世代に伝えていく。5歳から80歳までの3世代が、自然を舞台に躍動する光景は都会では絶対に見られない美しさである。

学校の教科書がすべてではない。生きた教科書は、現実のなかにいくらでもある。学校の教師だけが先生でもない。すべての大人が手本である。荒廃しつつある学校教育は、地域ぐるみで立て直さなければならない。学力重視の親からは異論もあるが、子どもの嬉々とした姿が親の責任を問うている。