<出会い>に学ぶ生き方の極意

No.1 ~人生の転機は、すべての人に必ず訪れる~

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高齢化社会の狭間で思う

 全人教育の研究・実践の泰斗-森信三先生は「人間は一生のうち逢うべき人には必ず逢える。しかも一瞬早すぎず、一瞬遅すぎないときに…」と。喝破された。

 古希を目前にした今、あらためてその言葉の重みを噛み締めている。

 昭和十二年生まれの私は来春、六十九歳になる。長寿社会の現在では珍しくもないが、日本流の数え年なら「古希」に達する。まだ若いつもりでも「古来稀なり」の年齢に到達すると思えば、実に感慨深い。

 
 先日も郷里に関係の深い集まりに出席すると、近況報告を兼ねて若い頃の思い出と健康に関する話で持ちきりだった。ところが残念にも、どこからも未来の夢物語などは聞こえてこない。第一線の表舞台から退いたとはいえ、なお現役を自負している私にとっては場違いな思いさえした。気も萎えるばかり。
 

 過疎化する郷里の現状を憂えて、活性化への道を探りたいと語り掛けても、興味を示して耳を傾けてくれる人も少ない。各自とも我が生活で精いっぱいなのだ。貧しくて困っているのではないのに、他事に関心を向ける心のゆとりさえないのか。

 同日、別の会合に参加した。高齢者中心の集いだったが、すこぶる元気にあふれていた。話題は地域の活性化や生きがいなど、将来を描く建設的な意見が主流。ようやく自分の居場所を見つけた感じだ。
 

 それぞれ人の生き方の差は、どこから生じるのだろうか。結論を先に述べれば、冒頭の森先生による教えが示唆する「出会いのご縁の生かし方」にあるように思えてならない。

 乏しい経験ながらも、人のご縁の不思議さ、ありがたさ、そのご縁の生かし方についてお伝えしたい。 

巡り合わせの不思議を体験

 間もなく団塊の世代が定年を迎える。戦争を知らない、貧困を知らない、畏れも知らない世代が、どのような老後を過ごすのか、実に興味津々で注目している。

 〈縁〉なるものはよく考えると不思議な存在といえる。天は誰にでも同様に「一瞬早すぎず、一瞬遅すぎないときに」良縁を与えている。

 だが、縁に気付いて生かす人、気付いても生かせない人、全く気付かない人― に三分される。それは知識や能力に関係なく、その人の持つ天与の感性のなせるすべであろうか。

 私は還暦を控えた平成八年に、次々と素敵なご縁に恵まれた。もちろん、それまでの歩みの中でも、たくさんご縁を受けていたに違いないが、残念ながら気付かなかっただけと思う。ともかく、まさに生き方を大きく変えることになった時機である。

 具体的に述べると― 。同年二月、那覇市内で開かれた「沖縄掃除に学ぶ会・全国大会」で、この後ずっと「生涯の師」と仰ぐようになった鍵山秀三郎さん(当時はイエローハット社長・創業者)と出会い、トイレ磨きを共にするご縁をいただいた。 「トイレを磨いて心を磨く」なんてまやかしだと思っていたが、その小さな行いの奥深さと偉大さに触れる。私の掃除道修行の契機となった。

 同年六月、広島市内で開催された「はがきまつり」に参加、坂田道信さん(複写はがきの提唱者)の絶叫講演を拝聴させていただく。森先生のご縁に連なる坂田さんのはがき道に懸ける一念に、心底を揺さぶられる感動を得た。「はがきを書き続けると人生が良くなるよ!」と教示され、即刻、はがきを書き始めた。

生き方まで変える出会いが続く

 同日、「はがきまつり」の交流会で、森先生の教えを社会に広める活動に生涯を捧げておられる寺田一清さん(実践人の家・常務理事)と、席を隣り合わせ意気投合した。翌年二月、南米の「ブラジルを美しくする会」にお供して、多くの教えを得た。中でも「時を守る、礼を正す、場を清める」の生き方は衝撃的で、新たな目標を見つけた。「古希」と「還暦」コンビの楽しい旅…。

 「はがきまつり」の翌日は「広島掃除に学ぶ会・全国大会」で、鍵山さんに再会。その上、松下政経塾の元塾頭を務めておられた上甲晃さん(現在は志ネットワーク・代表)と、宿舎のエレベーターに、偶然にも乗り合わせた。

 上甲さんは、同学ぶ会・講演会の講師として招かれ、掃除も実践された。上甲さんは当時、「将来の日本を担う志高い青年を育てたい」と、「青年塾」の創設に東奔西走されいた。この偶然の出会いがご縁となり、長男が栄えある第一期生として入塾を許された。

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鍵山さん(正面中央)にトイレ磨きの
手ほどきを受ける筆者(右端)

 当時の衆議院議員・中田宏さん(現在は横浜市長)とのご縁も、ささやかな接点からだった。中田さんの講演テープを偶然に入手して、政治に情熱を燃やす強固な信条、新鮮な視点と姿勢に感銘を受けた。しかも、選挙区の神奈川八区に関係ないけれど、中田さんの政治活動を支援し、交流を深めてきた。詳しくは別稿で述べたい。

 平成八年のご縁はまだ続く。十月に入って群馬県で小学校教師をされていた内堀一夫さんと「奈良掃除に学ぶ会」で同室となる。内堀さんは教員生活の二十四年間を貫き、一日も休むことなく「学級通信・青い声」を児童らに届け、多大の教育成果を挙げられた。その実践を真似て、私も社員向けに「デイリーメッセージ」を連日欠かさず発信し始めた。

数多くのご縁が転機の鍵

人生を変えるほどの機縁をいただいた方々は余りにも数多く、ここに書ききれない。次号以降で新たに紹介しい。平成八年の出会いから間もなく十年…。すべての方々に現在まで、なおも教えを受け、啓発され、実践の源泉になり続けている。
 

 ささやかでも、私なりに、出会いによる学び、喜び、生き方を、日々の実践から浮き彫りにしたい。

 ”極意”は大げさかもしれないが、呼んでいただければ幸いである。

No.2 ~巡り合いの”不思議”に手を合わせる~

No.2 ~巡り合いの"不思議"に手を合わせる~No.2 ~巡り合いの"不思議"に手を合わせる~

「総合的な学習」の先駆者

群馬県箕郷町で「まごころ塾」の塾長として、若い教師の育成活動に 奔走されている内堀一夫さん(元小学校教諭)とのご縁は、平成八年十月に開かれた「奈良掃除に学ぶ会で同室になった偶然から始まる。

 内堀さんは一小学校教師にすぎないのに、実は文部省(現在の文部科学省)の指導方針=知識の詰め込み教育に疑問を持ち、「子供らの感性を育てる教育」に重点を置いて指導されてきた。いま話題の〈総合的な学習〉のはしりといえる。

 人はそれぞれに長い人生の中でさまざまな経験を積んでいる。電気工事のおじさん、郵便配達員や歌い手さん、企業の経営者だって例外ではない。いろんな職業の人たちに教室で人生を語ってもらう。それが子供たちを刺激し、感性を育むのだ。

多くの困難をしのぎ、信念を貫く

 文科省の方針で〈総合的な学習が、実験的に始められたのは平成十一年。内堀さんの試みは既に平成四年にスタートしているから、先見性
のある画期的な授業といえよう。

 当時の実情を考えれば、教師資格のない人物を教壇に立たせるなど、頑迷な教育委員会や事なかれ主義の学校管理者が簡単に許すはずもない。内堀さんは当 時、高崎市立長野小学校の四年生担任。何とか子供たちを人間性豊かに育てたい―という信念を貫き、紆余曲折もあったけれど、結果として見事に実現させた。

 その代わり、思いもかけない代償を支払うことになる。平成十四年に定年退職されたが、校長はおろか教頭にも任命されず、一教師のまま教 員生活を終えられた。この事実一つを見ても、いかにすさまじい闘いであったか、容易に想像できよう。

学級通信を24年間1日も休まず

そんな内堀さんはユニークな教育活動で、心ある知識人の間では著名であった。私も縁あって『ガリバンのうた』『出会いのある教室』などの著書を読んでいた。それだけに偶然の出会いであっても、心に深く重く響いて、共感するものがあった。

No.2 ~巡り合いの"不思議"に手を合わせる~

トイレ磨きに没頭する内堀一夫先生と試作
~「三冠王になった子供たち」より~

 

ご縁を得た数日後、子供らの詩集『おいらの先生は社長さん』と写真集『三冠王になった子供たち』が届く。本を開いてびっくり。

 何と、教員免許のない講師第一号は、鍵山秀三郎さん(当時はローヤル社長、日本を美しくする会・創設者)ではないか。鍵山さんと内堀さんの交流記録は、神渡良平さんにより書かれ、月刊誌『致知』(平成七年二月号)に詳しい。あらためて巡り合わせの不思議を痛感した。

 ご年配の方は「ガリバン」なるも のをご存じだと思う。蝋(ろう)紙に鉄筆で文字を刻み、ローラーにインクを付けて、手動で一枚ずつ印刷する。暑い夏には蝋が汗で溶ける。文字がかすれて読みにくくなる。手掛けた方々もあろう。一枚書くにも刷るにも並大抵ではないのだ。

 内堀さんは、このガリバン刷りの学級通信『あおいこえ』を、一日も 欠かさず二十四年間も続けたというから、本当に驚嘆してしまった。

しかも、著書『ガリバンのうた』によると、生徒らと食事をしながら昼食時間に書き続けたという。そう
しなければ、下校時に手渡せない。

 その内容は、子供らに対する愛情と配慮でいっぱいだ。怒らない、愚痴らない、けなさない、良い面を見つけては褒めたたえる。子育ての神髄・極意に満ち溢れている。

 最大の教育効果を挙げるには、一人一人とスキンシップが欠かせない。しかし、現実には教師一人が四十人近い生徒と、分け隔てなく接するのは難しい。それを補って余りあるのが学級通信の発行という伝達方法で、大きな成果を収めてきた。

私も欠かさず社員にパソコン通信

 内堀さんとの出会いをきっかけに啓発された私も、社員とのコミュニケーションツールとして、六百字前後 の『デイリーメッセージ』をパソコン通信で活用している。このほど三千号を超えた。見習った内堀さんの二十四年間には遠く及ばないが、一日も休まず続け、 「千日行」ならぬ「三千日行」を達成した。

 よくぞ続く…と我ながら感心するが、もしも『奈良掃除に学ぶ会』で内堀さんと巡り合わなかったら、書き始める気さえなかったに違いない出会ったご縁の不思議を思う。

 内容の良し悪しは別だが、延べ百 八十万文字のメッセージを積み重ね て、継続する素晴らしさと意義を実 感している。しかし、読まされる社員側は、とんだ迷惑だったかも?

 二年半前、私は癌に侵され、胃の全摘出手術を行った。その時点でデイリーメッセージは、二千二百号を上回っていた。癌の先輩によるご託宣では「いくら気丈でも、手術後二日 間は身動きできない」という。

内堀さん同様に「一日も休まず」が目標だけに、中断したくない気持ちの方が、どうしても強かった。「座るぐらいで、手術後の傷口は裂けないよ」という主治医の言葉に意を強くして、ともかく病床で起き上がりパソコンを叩いて、続行…。

意外な展開となった出会い

 私は知らなかったのだが、内堀さんは、知る人ぞ知る熱狂的なカープファン。今は夢物語ながら、平成三年に山本浩二監督が初優勝した時のインタビューで「選手を褒めてやってください」と話す第一声に惚れ込んだのが、のめり込む契機とかとか。

 以来、中国新聞の社会面「ほのぼの」欄に取り上げられたり、中国放送では「群馬と広島のキャッチボール」としても放映されたそうだ。

 その上、驚いたことに「内堀先生を励ます会」までもが広島にあって、カープの試合観戦を通じて交流を絶やさず続けていることも初耳だった。その世話役のお一人が池田博彦さん(当時は広島東洋カープ広報室長)で、広島の池田さんを群馬の内堀さんから、逆に紹介された。

 そして、そのご縁がまた新たな転機をもたらす不思議なご縁につながっていく。「木原さん、現役を離れたら子供たちと農業をすれば…。それが一番似合って いるよ」と、池田さんは初対の私に言われた。深い意味はなかったと思うが、その言葉がきっかけで、やがて私は、実際に親子農業体験塾《志路・竹の子学園》 を創設し、塾長として有意義な新人生を刻むことになる…。

No.3 ~はがきを書き続ければ、人生は必ず好転~

No.3 ~はがきを書き続ければ、人生は必ず好転~No.3 ~はがきを書き続ければ、人生は必ず好転~

30年を歩む《実践人の家》

 平成17年8月20日と21日の両日、兵庫県尼崎市内のホテル・ホップインで、社団法人《実践の家》 創立30周年記念大会が盛大に開か れた。大会のテーマは『一灯をかかげ、時代を開く不易の実践』。

 《実践人の家》は、全人教育の研究・実践の泰斗― 森信三先生の教えを後世に伝え、社会に広める役割を 果たすため創設され、歩んでいる。

 「わが亡き後に、心通う同志の人々の三名にても書を読まむ集いだにあらば、姿なき身にてはあれど、希 (こいねがわ)くば、予もまたその一席末に列するを許されむことを!これわが今生最後唯一の心願なり」

 森先生の残された言葉が、心ある人々の実践となって今も脈打ち、諸活動を繰り広げる。奇しくも今年は森先生の生誕110年に当たる。

 記念大会は、森先生を信奉してやまない鍵山秀三郎さん(イエローハット・創業者)と、田舞徳太郎さん (日本創造研究所・代表)の名講演で始まる。そして、最後の交流会まで全国から集まった350名の参加者を魅了し尽くした。

 鍵山さんの演題は「心あるところに宝あり」で、ご両親への熱い感謝の思いを語られた。田舞さんは「霊山(りょうざん)に近付けば、鳥自 (おのずか)ら金色(こんじき)となる」と題して、人としての生き方 の基本を説かれた。お二人の講演は何度も拝聴しているが、この日は格別な感激と情趣を味わい得た。

〈はがきまつり〉で感動のご縁

 森先生の教えを広く世に伝える活動に生涯を捧げておられる寺田一清さん(実践人の家・元常務理事)と坂田道信さん(複写はがき提唱者) は、コンビで壇上に登場…。四十年前の師との感動溢れる出会い、触れ合いを、にこやかに楽しく語り合って、満場の拍手喝采を浴びられた。

 私はデジカメを持って右往左往しながら、必然とも言えるご両人とのご縁を、懐かしく思い出していた。

 平成8年6月、親交のあった時永朝夫さん(当時・ホテルユニオン社長)に誘われ、広島市内で開かれた〈はがきまつり〉なる催しに、内容も分からずお付き合いで参加した。

 その会場で、図らずも同時に、寺田さん、坂田さんと出会うことになる。森先生のご縁に連なる坂田さんの「複写はがきを書き続けると、人生が良くなるよ」 の絶叫講演を拝聴して、心底を揺さぶられるほど感動した。何よりも坂田さんの「はがき道」に懸ける一念に、突き動かされ、大きなショックを受けてしまっ た。

 出会いはさらに続く。講演後の交流会で、偶然にも寺田さんと隣り合わせる。そして、森先生の名著「修身教授録」をご紹介いただき、新しい世界に踏み込む契機になった。

 感動とは「感」即「動」。複写はがきではないけれども、その夜すぐに、出会った感謝を込めて、坂田さんに第一号のはがきを書かせてもらう。第二号は寺田さん宛だった。

はがきを書く実践と効用

 これまでの長い人生で、筆まめな私はたくさん手紙やはがきを書いてきた。だが、それは一般的な儀礼や単純な伝達手段の範疇にすぎない。坂田さんの主唱される「自分史」を刻むような思いでは書いていない。

 〈広島はがきまつり〉は、既に二十年を超えて年一度開かれ、複写はがきの道友が楽しみに心待つ集いである。広島県内のみならず、遠くは北海道や沖縄からも参加される。

 道友と交わすさり気ない会話で、新たに気付かされる学びも多い。

真っさらの時ははがきを「枚」と数えるが、いったん宛名を書いたら「通」と呼ぶ。「書く」のではなく「書かせていただく」と心得る。

 宛名は相手に尊敬の思いを込めて筆で書かせていただく。本文は一行目に相手の姓名と発信日付を入れる。最後に自分の名前を書く。文字は青色のカーボンを 使用し、丁寧に書かせていただく。黒文字は相手の心を和ませない―などなど。一つ一つが「なるほど…」と納得させられる。

 一年後に二千通ほど書かせていただいた頃、腱鞘炎(けんしょうえん)気味で右腕が動かなくなった。坂田さんに痛みを訴えたら「まだ書きようが足りない。 やがてはがき用の筋肉が付くので、気にせず使いなさい」と、事もなげに言われる。 事実、その通りに、やがてペンだこが出来て、右腕もやや太くなった。

No.3 ~はがきを書き続ければ、人生は必ず好転~ No.3 ~はがきを書き続ければ、人生は必ず好転~
「複写はがきを書き続けると、人生が良くなるよ」と力説してやまない坂田さん。
No.3 ~はがきを書き続ければ、人生は必ず好転~ No.3 ~はがきを書き続ければ、人生は必ず好転~

No.3 ~はがきを書き続ければ、人生は必ず好転~

坂田さん宛の感謝はがきの一部。 3万通を超えるはがきコピーは「自分史」

 

「自分史」を刻み続ける日々

 平成16年9月時点で、書かせていただいたはがきは、いつの間にか3万通を超えた。坂田さんと感動のご縁をいただいて以来、毎日、平均10通ずつ投函した計算になる。

 発信した方は多士済々で、送り先も全国四十七都道府県に加えて、遠くブラジルなどの海外にまで及ぶ。

 坂田さんに教わった「はがきを書けば人生が良くなる」なんて半信半疑だった。だが、還暦を過ぎての交友の広がりは、はがき交流なくしては考えられない。紛れもなく人生は良くなり彩り豊かと自覚している。

 私は、はがきの下端に一通ずつナンバーリングを打たせていただく。末尾が三桁ゼロのはがきは、ご縁に感謝を込めて坂田さん宛に書かせていただいている。つまり千通ごとに礼状を差し上げる結果になる。

 いつまで続くだろうか? 今のペースで書き続けるなら、あと17年で10万通になる。その時はお祝いのパーティーをお願いしているが…。

 残念ながら、人間の寿命には限りがある。他界される道友も少なくない。ゴールに到達するには、常に積極的な人生を送り、ご縁を大切にしつつ、さらに新たな出会いを求め続けねばならない。

 私も間もなく古希を迎えるが、幸いにも、はがきが老いを許さず、常に背中を押してくれ、充実している。

 坂田さん、はがきと出会わなかったら、日々は味気なく、生気のない寂しい人生となったに違いない。

 まさに出会いに感動、ご縁に感謝の楽しい毎日を明け暮れている。

No.4 ~自分に出来るささやかな活動で役立ちたい~

No.4 ~自分に出来るささやかな活動で役立ちたい~No.4 ~自分に出来るささやかな活動で役立ちたい~

不透明な政治家らの実情に憤る

「出席した皆さんが居たと言われるのなら、否定するつもりはない」

「記憶にないが、ほかの方がそうおっしゃるなら、そうかもしれない」

 実にあいまいで意味不明な言葉の羅列…。だが、病院で語られる認知(痴呆)症患者の会話ではない。前者は青木幹雄参院議員会長、後者は橋本龍太郎元首相の弁。「司法の場におけるご両人の証言の一部だ。

 自民党旧橋本派の一億円ヤミ献金事件で、青木証人は献金の受け渡し現場にいたと認め、橋本証人は一億円の小切手受け取りを認めた一幕である。このような破廉恥な人物に、日本の政治を委ねていた事実を国民の一人として、実に悔しく思う。

 このほど発表された平成十六年分の政治資金総額は、中央分で1381億円。企業・団体献金、政治資金パーティー、政党交付金が大半を占め。肝心な使途は相変わらず不透明きわまる。

 国民から見れば驚くべき巨額な金だが、使途にさしたる制限もなく、実態は使いたい放題。一人当たり250円を負担する我々にとって、「政治には金が掛かる」という理由だけでは、許しがたい実情である。

 企業・団体献金の上限を厳しくした政治資金規制法が改定されても、国会の自浄機能の喪失が回復されるとも思えない。しかも、法の抜け穴を探すのが得意な政治家にとっては、痛くもかゆくもないだろう。

 発表内容を見るかぎり、政党と企業団体のつながりは益々緊密化している。泥棒が自らを縛る法律を作るようなもので、透明性はまるっきり確保・改善されていない。

選挙運動に東奔西走の議員ら

 地域社会の高齢化で町民運動会などイベントは少なくなってきたが、さすが秋にもなると各地で歓声が起こる。そして、開会式などには小さな催しでも、国会議員、県・市議会 議員らが顔を連ねる。在り来りの祝辞を述べ、一歩前に出て手を振る。

 「金帰火来」と言われる国会議員の政治活動の大半は、次なる選挙のための顔出しに東奔西走する。政治資金のすべてが選挙の事前運動などに使われているとは思えないが、国民の眼にはそれしか見えてこない。

 中田宏さん(横浜市長・元衆議院議員)は、九月の三連休を中国地方に充て、多彩な政治活動を展開した

 広島市内で250名、呉市内では1800名、益田市内でも500名の市民を集め、「横浜から日本を変える」「論より実行」などをテーマに、自らの政治信条を熱く訴えた。

 横浜市では来春、市長が改選される。普通の政治家であれば、貴重な三連休を選挙区内での諸活動に充当するだろう。だが、中田さんは「日本を良くするため、市長になった。でも、請われればどこであろうと行って改革を叫ぶ」と力説される。

 まさに言行一致。類まれな行動力である。地元の祭りや運動会で手を振る政治家とは異質で、別次元だ。

No.4 ~自分に出来るささやかな活動で役立ちたい~
「なせば成る、論より実行」と、
超満員の市民らに話し掛ける
中田宏・横浜市長

(広島市内のホテル)

No.4 ~自分に出来るささやかな活動で役立ちたい~

 

誰にでも出来る政治活動

 広島と横浜は政治的に何のつながりもなく、むろん一票の投票行動をする機会もない。広島市民の私が横浜選挙区の中田さん(当時・衆議院議員)の政治活動を支えるのは、常識としても奇異に思われるだろう。

 中田さんとのご縁は、偶然に入手した講演テープからだった。その中で企業・団体からの政治献金を受け取らない政治家の予想外の清貧な暮らしぶりを知った。料亭などを舞台に、善人面をして悪業の限りを尽くす政治家の姿はない。全く懸け離れた対局の存在だ。

 国会議員とは年間3000万円に上る報酬を受けるリッチマンというイメージを持っていた私には、正直言って衝撃だった。生活費月24万円などというサラリーマン以下の暮らしなんて思いも寄らなかった。

 日本の政治家の活動費は、企業・団体の資金に頼るのが一般的だ。当然のことながら金に絡んで利権が伴い、癒着も生まれる。不透明な資金が政治を貶めるのは、誰もが知っていながらも、見て見ぬふりをしている。だけど、誰も改めようとしない。

 実は、鍵山秀三郎さん(イエローハット・創業者)が「企業・団体の政治献金が、日本の政治を堕落させる根源。利害やしがらみのない個人献金で政治活動してもらい、日本を良くする運動を進めよう」と提唱。

 『中田宏と共に日本を良くする万縁の会』の結成を呼び掛けられた際、前述のテープを得た。内容を知って共鳴し、即座に入会手続きをした。

支援の輪を広げたい

 『万縁の会』を通じた中田さんとのご縁から、どんなにささやかな活動でも、続ければいつかは実ると教えられた。会員は年会費一万円を納めて、中田さんの政治活動を支える。個人的な頼み事は一切しないで、ひたすら支援の輪を広げる活動を展開していく。見返りは求めない。

 一個人の力ではさしたることはできない。だが、政治家の活動を個人献金で支えるのは理想的だ。日本には馴染まないとされるが、それで諦めていては日本を変えていけない。

 中田さんの政治に情熱を燃やす強固な信条、新鮮で志高い視点、卓越した行動力、他の政治家に見られない言行一致の生きざまは、極めて魅力的だ。政治の理想像を追い求めるに、この人以上のモデルはない。

 広島に『万縁の会』が誕生して八年…。毎年広島を訪れ「もっと日本を良くしていこう」と、彼自身の実践を基軸に市民と対話する。国会議員から横浜市長に立場は変わっても、政治のスタンスは一貫している。

 幸い、多くの畏友らに理解いただき、広島県内の会員数は地元神奈川は別格として、東京を抜き全国トップになった。少々熱くなりすぎだよ―と揶揄する友人 もいる。けれど、中田さんを支援する輪を広げる活動は、私にとって「そうじ」や「はがき」と相まって生きがいになり、日々がこの上もなく充実している。

No.5 ~不思議なご縁に導かれ、ブラジルで学ぶ~

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お掃除を世界大会でアピール

 平成17年9月23日から25日までの3日間、日本から見れば地球の裏側にあたるブラジルのサンパウロ市内で「日本を美しくする会・第一回世界大会」が開かれた。

 日本から参加した代表団120名をはじめ、世界各地から5000名に及ぶ人々が集い、国や宗教を超えて掃除活動の大切さをアピールした。

 たかが掃除ぐらいで大げさな― という向きもあろうが、違うのだ。

 11月1日朝8時35分から50分間、放映されたNHK・ホットモーニング「トイレ掃除が日本を変える」をご覧いただけただろうか?

 紹介された鍵山秀三郎さん(イエ ローハット創業者)の人生行路を辿れば、生半可な取り組みではない― と納得されよう。感動の内容だった。

 サンパウロまでは、成田からニューヨーク経由で24時間の空の旅。時差は12時間で、昼と夜が逆になったと考えれば分かりやすい。

 第一回世界大会は、平成8年にスタートした「ブラジルを美しくする会」の第十回開催を記念して企画された。サンパウロ在住の飯島秀昭さん(美容学校経営)ら日系人20名が世話役となって育ててきた現地の掃除活動の大きな成果である。

 世界大会は同市内のパウリスタ大通りを舞台として開かれた。5000人に上る人々が手に手に掃除用具を持ち、町をきれいに掃き清める姿は、壮観で、反響も成果も多大だった。

 私も、その熱気に巻き込まれるはずだったが健康を害して不参加。これまでは第二回、第四回、第六回と三度も参加しながら、初の世界大会の息吹と成功を肌で感じる機会を逃したのは、本当に無念でならない。

出会いの不思議を次々に体験

 平成7年4月に阪神大震災のお見舞いで来日した飯島さん一行は、私の畏友・上野起立さん(当時は三油倉庫社長)が世話人として開催した第一回「大阪掃除に学ぶ会」に参加された。その会場で掃除を指導されていた鍵山さんと初めて出会う。

 素手素足のままトイレを磨いている鍵山さんの姿に感動した飯島さんは、ゴミが散乱し汚れているサンパウロ市内を「ほうき一本で美しくしよう」と決意する。そこで、朋友らと相図って「ブラジルを美しくする会」を立ち上げるに至る。

 飯島さんは、鍵山さんに「ぜひブラジルでもご指導いただければ…」とお願いした。すると、「一年以内に必ずブラジルを訪れましょう」と明快な返事。そして、翌年2月には、上野さんを団長とする19名の日本代表団がブラジルに赴き、ほうきを手に掃除の第一歩を踏み出した。

 松岡浩さん(当時はタニサケ社長)に誘われて、初めて「沖縄掃除に学ぶ会」に参加した時、私は、上野さんによる「ブラジル掃除活動」の報告を聞く。漠然とした気持ちながら、未知の国・ブラジルを訪問したい思いが胸をよぎった。それが翌年からの活動参加につながっていく。

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サンパウロ空港では横断幕で歓迎される日本代表団(第4回大会)

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初体験のトイレ磨きに挑む現地の若者たち

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全長2kmを超える壮大な「イグアスの滝」にも、畏敬の念が湧く。

一瞬早からず遅すぎないご縁

 参加したい願望はあっても、ブラジルはあまりにも遠過ぎる。決心するには多くの条件が必要となる。決断して条件を整えるか、それとも条件を満たして決断するか、まさに己の生き方そのものを問われてくる。

 ブラジルと日本の掃除活動を直接結んでくださったのは、先述の上野さんのご尽力によるものだ。

 実は平成8年4月、兵庫県中小企業同友会に、記念講演会の講師として招かれていた。場所は神戸のホテルニューオータニ。会場に向かって廊下を歩いている時、前から上野さんが歩いてくる。「先日はどうもありがとうございました」と互礼…。

 上野さんは反対側の会場に、神戸倫理法人会の講師として入室寸前。あまりの偶然に正直言って驚いた。その時の一言「ブラジルへ掃除に行こうよ」が決め手になり、翌年の第二回大会への参加を即決した。

 「一瞬早からず、一瞬遅すぎない…」といえる出会いに、運命的な不思議さを直感し得たからである。

 この出会いがなかったら、私は遠いブラジルまで出掛ける機会もなかったし、それ以降、第四回、第六回と三度も訪れるご縁はなかったに違いない。おまけに第六回は、日本代表団の団長までも仰せつかった。

 第二回も鍵山さんはご夫妻で参加され、13日間の旅程をお供させていただく。サンパウロでの公式行事を終えて観光。リオのカーニバル、世界一のイグアスの滝、アマゾンの大自然などとも出会いを重ね、スケールの大きさに畏敬の念を深めた。

人間は出会いでしか変われない

 その折、還暦の誕生日をブラジルで迎えた。幸い、雄大な自然の中で鍵山さんと過ごした日々から、新しい私なりの在り方さえプレゼントいただけったように思えてならない。

 「人間は、優れた実践者の出会いでしか変われない」と先哲から教わったが、まさにその通りだと実感できた。以来、私にとっては新たな人生が始まったと自覚している。

 鍵山さん評を、古希記念に参加された寺田一清さん(当時は「実践人の家」常務理事)は「日本の常識を変える人である」と話され、松岡さんは「現代の菩薩」と表現された。

 私たちから見ると、鍵山さんは遥かな雲の上の人。その人が飛行機ではエコノミー、日々の食事も皆と同じ場所で、移動のバスも一緒。日本ならともかく、ステータスを重んじるブラジルでは、鍵山さんの立ち居振る舞いが信じられなかったようだ。

 マスコミは「日本の億万長者たちが、はるばる地球の裏側までやって来て、ブラジル人に掃除の大切さを教えてくれる。こんな事があっていいのだろうか。信じられない」と最大級の論調で歓迎してくれた。

 掃除活動を通じて、異国で生き抜き苦難を克服した人たちと出会う。学ぶ事例が何と多かったことか。特に日本人より日本人らしいサムライたちとの触れ合いは、ぬるま湯に漬かり切っている私には衝撃的だった。いつか稿を改めてお伝えしたい。

No.6 ~人生の師から教わり学ぶ日々に感謝~

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トイレ掃除の神様と出会う

十年を過ぎた今でも、鍵山秀三郎さん(イエローハット相談役、当時はローヤル社長)と出会った日を鮮明に覚えている。東京都内で開かれた「船井総研・経営セミナー」の講演で、トイレ掃除三十年…を聴かせていただいた時の衝撃は大きい。

 平成7年9月10日。会場は政治の舞台として度々ニュースを賑わした平河町の砂防会館。鍵山さんは「世の人々から心の荒みをなくしたい」と誓願され、人が最も嫌がるトイレ掃除を開始した動機を語られた。

 私が抱いていたトイレのイメージは「暗い」「臭い」「汚い」「恐い」の4Kで、小学生時代の体験からこびり付いている。率直に言って鍵山さんの話を聴くまで、きれいな場所と感じたことは全くなかった。

 企業トップが誰よりも早く出勤、便器を素手で磨いて社員に使わせるなど、想定外の体験談だった。

 しかも三十年間、一日も休まず続けていると淡々と話される。さらに驚いたのは、鍵山さんのトイレ掃除を見習って、全国の経営者の間にも同様の活動が広がり、一部では「掃除に学ぶ会」として定期的に活動が開催されている事実である。

 その時は素直に信じた。「世の中は広い。すごい人がいる」。同時に「変わった人だな」とも思った。正直な感想である。ただし、掃除はまだ実践するには至らなかった。

平凡な事を非凡に努める―に疑念

 鍵山さんについては、全国をネットするカー用品販売・ローヤル(イエローハット)社長と講演前に紹介されていた。だが、経歴などに関心がなかったせいか、すぐ忘れた。

 数日後にメモを整理しながら、改めて気付く。年商1000億円、従業員2000人、業界ではオートバックスに次ぐ第二位の大企業、しかも、創業者でオーナー社長…。業界の位置付けを知って、素直でない私の常識は揺らぎ、疑念を抱いてしまった。

 「平凡な行いをやり続ける」大切さを説かれ、その通りだと共鳴し、胸を打たれたのだが、その感動は鍵山さんの経歴が経歴だけに変化…。

 「まさか年商1000億企業のオーナーが、トイレ掃除など人の嫌がる行いを三十年も続けられるはずない」と、私の固定観念が否定する。

 私の見知る大会社の経営者らは、舶来の高級スーツをまとい、運転手付きの豪華な外車に乗り、秘書を従えて活動している。傲慢不遜な立ち居振る舞いばかりが目立つ。

 そんな立場とトイレ掃除が、どうしても結び付かない。鍵山さんは平凡な紺の背広、履き古したソラマメ形の靴、カバンを自分で持ち、徒歩で移動される。穏やかな笑顔で、温かい握手までしてくださった。

 同じ経営者ながら、どう考えても乖離がありすぎ、その差異が埋まらない。私の思考能力を超えている。

 ところが五ヵ月後に鍵山さんの素晴らしさを目のあたりにでき、一気に疑念が氷解する幸運に恵まれた。

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私にとって座右の書となった鍵山さん作の「掃除に学んだ人生の法則」

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会う人々を和ませ、包み込む慈父のごとき温顔。
まさに「現代の菩薩」と評される鍵山さん

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還暦記念に贈呈いただいた色紙

感動の「言行一致」を体感

 鍵山さんはモットーの「凡事徹底」を、①すべての物を生かす、②すべてに行き届く、③言行一致の集積―と、分かりやすく解説される。

 いみじくも曹洞宗開祖・道元禅師が、著書「正法眼蔵」で述べた「閑らにすごす月日は多けれど、道をもとむる時ぞ少なき」(本当の道を歩む難しさと、一日一日の尊さ)の至言。その生きざまにも直結する「凡事徹底」は、実に意味深い。

 平成8年2月、初めて「沖縄掃除に学ぶ会」に参加。南国とはいえ真冬の寒冷に凍えながらも私は、素手素足で便器を磨かれる鍵山さんの姿を現認した。真摯で自然体の「凡事徹底」の神髄を、間近でしっかり確信できた。雷に打たれたというか、体中が震えるほどの感動で、しばし立ち尽くしたままだった。

 それ以降、各地で開かれる「掃除に学ぶ会」に率先して参加し続けている。けれども、沖縄で体験できた人生観を変えるほどの鮮烈な場面にはなかなか出会えない。その中で、同年9月に実施された「上海掃除に学ぶ会」四日間の旅は忘れ得ない。

 今でこそ小泉純一郎首相の靖国神社参拝問題などで、日中関係はぎくしゃくしている。だが、当時のマスコミは「大切な日本の友人たちが、掃除の大切さを中国人民に教えてくれた」と、最大級の賛辞で報道。大歓迎だったのも懐かしい思い出だ。

 最終日、人民広場をゴミ拾いしながら、一行はバスの待つ場所に向かった。途中、鍵山さんは道端の脱糞を新聞紙に包み、ひょいと掴みあげ手持ちのゴミ袋に入れたではないか。これには一同、ぶったまげた。私のちっぽけな人生観も、跡形なく吹き飛んだ瞬間である。目撃した上海市民から、大きな拍手が起こった。

「唾面自乾」で屈辱に耐える

「掃除に学ぶ会」の活動に励むうち、私にとっては実に屈辱的でかつ衝撃的な一つの事件に直面した。

 その時、相談した鍵山さんは自らに課す「唾面自乾(だめんじかん)」という言葉を、書簡に託して送ってくださった。

 「たとえ顔に唾を吐きかけられても、手で拭ってはならない。自然に乾くまで待て。長い人生には、さまざまな屈辱を味わう場面がある。そんなときは、心を乱すことなく、ひたすら耐えよ」という厳しい戒め。

 その一言が胸に響き、忍耐を覚えて、心を乱す場面が少なくなった。

 私とて弱い人間。だから思いがけない出来事に遭遇すれば心も乱れ、うろたえる。ガン告知を受けた時もそうだった。鍵山さんの言葉が支えになり、大過なく乗り越えられた。

 人生の師を持つ人間は、最高の幸せを掴んだのと同じ―と言われる。

 まさにその通りだ。「沖縄掃除」「上海掃除」の実体験、『唾面自乾』の教戒が、鍵山さんこそ、わが生涯の師と仰ぎ、畏敬する由縁となった。

  天のご配慮に感謝する日々である。

No.7 ~国際的に活躍する大学教授に啓発される~

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友あり、遠方より来る

東北・信越地方などで豪雪被害が相次ぐ一月八日、シアトル市内にあ るワシントン大学・客員教授として活躍されている若林茂さん(55)から、思いがけずも嬉しい電話が入った。

 「今、日本に帰っている。出来れば帰米前に広島を訪れ、関心のある 《竹の子学園》をぜひ視察したい」という申し入れ。幸い、好天に恵ま れ、学園所在地の広島市・白木町でも交通には支障ない程度に雪解けしている。即、ご案内をOKした。

 顧みれば当初、若林さんとのご縁を結んでくださったのは、群馬県在住の内堀一夫さん(元教師)。細かな経緯は不詳だが、四年前に私が執筆・発行していた月刊誌『ちょっと・とーく』を、内堀さんから若林さんに届けられたのが端緒だった。

 生意気な辛口の論調が気に入られたのか、若林さんから早速、感想を添えて丁重な初メールを下さった。

 元来、ITなど苦手なだけに、メールの返信も正直言って気が重かった。しかも相手は米国に在住の大学教授だけに、光栄ながら迷った。案ずるより産むが易し―ともかく第一信をインターネットで送る。

 それ以来だが、各メールのやりとりは並みでない。若林さんの本職は慶応大学出身の気鋭の経済学者。

 だが、レベルが高いばかりでなく、日系紙『北米報知』の読書欄で内外の書評も担当する大読書家だ。

 雑誌『米国読売旅行』の依頼で世界四十数カ国を旅し、紀行文をものされている。同誌の文芸大賞にも輝いた経歴を持つ文筆の達人だった。

ただ一人のメル友から学ぶ

一回のメール往来は、ほぼ千文字前後。テーマは政治、経済、経営、教育、文学、映画、スポーツ、時事など、ジャンルも多岐・多彩に及ぶ。

 スポーツ分野でも若林さんは、飛び抜けた大リーグ通。シアトルマリナーズで活躍するイチロー選手の活躍ぶりを、詳細に届けてくださる。

 日米に関連する話題も多い時期だった。思いがけない小泉純一郎首相の誕生、イラク派兵、ブッシュ政権の課題、荒廃する日本の教育など、メールテーマは幅広く、尽きない。

 若林さんとメール交流を続けて、時には考え方の相違から衝突もあっ  た。だが、結果として私は高齢にめげず、学び続ける楽しさを知った。唯一のメル友を通じて視野が広がり、前向きな人生までも教わる。

 三年前に胃ガン全摘出手術の後、発刊した『世相薮睨み~木原伸雄のちょっ・とーく」には、余る高い評価をくださった上、北米報知の読書欄で紹介までいただいた。

 二十四章で構成した小冊子だが、次のような解説で、照れる。(抜粋)〈著者は小さな事実を、自らの体験を通じて集積し、それを帰納法的 思考で整理分析…。その後で実行可能なアイデアを意見として提言し、賛同者と集い、継続実践しています。

 本書は五十ページ余りの小冊子ですが、木原伸雄氏の社会貢献の一端を開示した意義ある作品です。元々は『月刊・ビジネス界』に連載された記事で、政治・経済・経営から教育・家庭・スポーツと幅広く現代世相を論評…。それらは、どれも知的刺激があり、同時に読者の衿を正す内容を構成しています〉。  病後の身には、本当にありがたく、大いに奮い立たせてくださった。

四年の歳月を経て感動の握手

一月十一日の正午すぎ、JR広島駅の新幹線改札口に出迎える。笑顔の若林さんと感動の握手を交わす。

 全くの初対面であるが、四年間で百回を超えるメール交換が、すべての障壁を取り除いてくれていた。互いの年齢、職業、立場に大きな差があるものの、何一つ違和感はない。

 人間の在るべき生き方を求めてやまない同志として、まさに、懐かしい旧友と再会した気分である。

 遠来の客をもてなすには簡便すぎて失礼かと思ったが、昼食代わりのおにぎりとお茶を買い求め、親子農業体験塾《竹の子学園》に急いだ。

 現地では世話役の先輩ら四人が、炭火を熾して待っていてくれた。

 若林さんはメール情報で、既に親子農業体験塾設立の意義、世話役の先輩たちによる並々ならぬ貢献なども熟知しておられる。もちろん名前もフルネームをインプット済みだ。

 炭火を囲んで干し柿を頬張りながら話が弾む。朴訥な表現ながら、過疎の活性化や高齢者の生きがいについても熱のこもった意見を交換…。

 国際的に活躍する著名な大学教授を囲んで、昭和一桁生まれの元気人らが談笑する風景は、生存競争の激しい昨今、まれな構図ではないか。

 現地の先輩らにとっても若林教授との得難い出会いは、昨年九月の中田宏・横浜市長らの訪問に次ぎ、想定外の出来事だったようだ。

 どんな小さなご縁であっても、大切に育んでいけば、自分の世界がさらに広がる事実を、重ねて実体験できた。先輩たちも同じ思いだろう。

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『出会い』と揮毫された老木を囲んで

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「おにぎりは懐かしい味…」と舌鼓を打つ若林さん

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炭小屋の囲炉裏を囲んで談笑する若林さんと世話役の先輩ら

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残雪の見える《竹の子学園・第一農場》に立つ若林さん

予想外の急展開でご縁深まる

帰国中の短い滞在ながら若林さんは、あまりにも損得勘定に明け暮れる日本人の精神荒廃を見聞きし、嘆かれていた。その分、わが郷里・白木町の歴史や自然、それに素朴な人情に触れて、いたく感激された。

 「日本人の文化は、確実に地方で継承されてるね」とも話され、先輩たちを喜ばせた。利害得失を超えた世界が脈々と息づいている姿を、短時間だが自分の目で確認された。

 若林さんは、「インターネットを勉強してメール交換しよう」と、先輩たちに提案。「いゃあ、今さら…」など、各自とも億劫そうな笑顔を返すが、結局は老齢の手習いを約束していた。実現するかどうか?

 「次回、日本に帰った時は、この場所で十日間程度、自然に囲まれて執筆活動したい」と、突如若林さんから思いがけない要望…。これまた先輩たちは気軽に引き受けていた。

 実現すれば、過疎化と高齢化が急速に進む集落では、大ニュースになること間違いなし。あれよあれよという間に、急展開でご縁が深まる。

 老木に『出逢い・若林茂』と墨跡鮮やかに揮毫。写真撮影にも快く応じてくださった。良い記念になる。慌ただしい二十四時間の限られた

 ご滞在だったが、別席で広島の酒も味わって頂き、すべてに有意義な交流がかなったと大満足している。

No.8 ~一瞬の奇縁を大切にして、孫世代へ伝承~

No.8 ~一瞬の奇縁を大切にして、孫世代へ伝承~

偉大なり!日々貫くメッセージ

論語に「賢を賢として色に易う」という一節がある。「賢者を尊敬して、恋するような熱心さで教えを受けよ」という大意。孔子の若い門弟・子夏の至言で、学びの心構えだ。

 それほど強く思いがあったわけでもないが1月27日、上甲晃さん(松下政経塾元塾頭・現在は志ネットワーク代表)の〈デイリーメッセージ5000号達成『感謝の講演会』ファイナルステージ〉に馳せ参じた。

 会場は東京都墨田区内にある「玉の肌石鹸株式会社」の本社で開催。「デイリーメッセージ」は上甲さんが松下政経塾に在職時、塾生らに思いの丈を伝えたい―と願って、始められた。平成元年から現在まで、 退職後も一日として休まず欠かさず、パソコンで送り続けておられる。

 平成17年5月、節目の5000号に達した感謝・報恩の気持を『全国縦断の講演会』という形で企画・実施され、今回の東京会場で延べ40回のフィナーレを迎えた。累計すると聴衆は総勢5000人余に及ぶ。

 だが驚くべきは、感謝・報恩とはいえ、各地で開かれた講演会の講師料、旅費、宿泊など諸経費をすべて上甲さんご自身で負担された事実…。

 とかく利害得失が優先する日本の世相の中で、自らの損得を超えて志高く生きる「知行合一」の精神を実証・体現され、深い感銘を覚えた。

 何はともあれ、ファイナルステージの場に己の身を置き、畏友たちと感動を共有したいと―熱い思いに突き動かされ、上京の仕儀となった。

 松下政経塾は、国会議員30名、知事・市長六名、地方議員28名など、多くの政治家を輩出し、日本の政治に大きな影響を与えている。

一瞬の奇縁に恵まれ、今に至る

彼らの大半は、上甲さんらの薫陶を受けた教え子に当たる。私ごとき一市民には実に遠い大きな存在だ。

 しかし、ご縁とは不思議なものだとつくづく思う。平成8年6月に開かれた「広島掃除に学ぶ会」に、鍵山秀三郎さん(日本を美しくする会・創立者)のお導きで参加した。

 その会で松下政経塾を退職し『志ネットワーク』を立ち上げた上甲さんが、記念講演されたのが奇縁だ。

 わが国の人心の荒廃や教育の乱れを憂えて「志高く生きる」をテーマ に熱く強く訴え、多くの掃除仲間に感動と共鳴をもたらした。私も心震えた一人である。講演の中で「青年塾」と銘打つ、全国展開による人材育成を提唱され、大いに共感した。

 講演直後、天の配慮によるものだろうか、偶然にも上甲さんと同じエレベーターに乗り合わせた。格調高い講演に熱くなっていた私は、その場で長男の青年塾入りを懇請した。

 幸い、望みは即かなえられ、今も本人の成長に役立っている。言わば、「一瞬早からず、しかも遅すぎない」絶妙のチャンスだったと思う。

 あれから10年。上甲さんの教え生き方に啓発され、長男だけでなく、私の還暦以降の人生を楽しく、豊かに、しかも明るく充実していただいている。有り難い限りだ。

「継続は力なり」の神髄学ぶ

ファイナル講演は楽しい語り口で終始し、約100人が傾聴したが、私自身の体験と重ね合わせても納得できる実例が多かった。

 今を時めく前原誠司民主党代表や中田宏横浜市長も塾生時代は、上甲さんから届けられる「デイリーメッセージ」に戦々恐々だったらしい。

 初期のメッセージは、相手を責めたり批判する内容が多く、塾生から全くそっぽを向かれたそうである。

 文中での「切り捨て御免」は罪深く、相手側に言い分があっても反論できない。それでも書き続けるうちに、いつの間にか、読んで勇気を共に出来る内容に変化したとか。赤裸々な自戒の言葉に、胸打たれた。

 上甲さんの5000号には遠く及ばないが、私も平成8年10月以来、同様の手法で社員にメッセージを発信し続けている。胃がん手術の際も休まず、この度やっと3300号を 超えた。お話を拝聴しながら、独り善がりのスタンドプレーになっていないか―大いに反省させられた。「継続は力なり」と先人は伝えるが、その「力」の中身は継続した本人でないと理解できない。自ら実践せずして人にやらせても、分かるはずがない―深くうなずくばかりだ。

 人の批判をするな! 評論家にな るな! 世の救いになる人になれ!と檄?まで飛ばされる。「5000号は道半ば。10000号に到達したら、祝ってもらいたい。その日にはもう一度同じメンバーで会いましょう」と、意気軒高なまま締め括られた。

得難いご縁を孫世代に引き継ぐ

『志ネットワーク』は、最貧国並みのバングラデシュを巡る《学びと交流の旅》というユニークな活動を展開して、注目の的。

 平成9年に開始した旅は、今年で10年の節目を迎える。物が豊かになって倹ましい暮らしを忘れた日本人が、生活は貧しくとも心豊かな人たちから学ぶ―が狙いだ。

 現地の経済界や子供たちと交流を通じて、相互に理解し合うプログラムも組まれ、有意義。私は第四回、第六回、第八回と参加でき、収穫も多大だった。電気もガスも水道もない農村の暮らしを実体験し、不自由な生活の中での豊かさも味わえた。

 私にとって今年は最後になるやもしれないが、四度目の参加を望んでいる。特に今回は小学四年の孫を連れて行く。同国の暮らしを体感、同世代の子供たちと交流させたいと願っている。飽食の時代に育った孫には、貴重な経験になると確信する。

 一瞬の出会いから生まれた上甲さんとの得難いご縁を、孫世代に引き継ぐのも、私の役割と心得ている。

 一週間の旅ながら、赤道直下の猛暑、政情不安な同国での予期せぬ出来事など、ひ弱な孫には重荷すぎるかもしれない。だが、旅の実体験は将来必ず生き役立つと信じている。

 古希の手習いだが、片言の英会話ぐらいは使いたいので今、孫と一緒に学び、励んでいる日々である。

No.9 ~ささやかな実践の積み重ねで伝統を育む~

No.9 ~ささやかな実践の積み重ねで伝統を育む~

感動いっぱいの車いす贈呈式

 春とは名のみの小雪舞う肌寒い2月27日お昼時、広島市立日浦中学校の教師や生徒らは、期待と喜びでひときわ緊張感に包まれていた。

 実は、「トイレ掃除の神様」として知られる鍵山秀三郎さん(イエローハット・創業者)が、わざわざ東京から同校を訪問されるからだ。

 用向きは、同校生徒らが6年前から取り組んでいる「アルミ缶を集めて車いすを必要ととする人に贈る」活動の贈呈式に出席するためである。

 そのアルボラ(アルミボランティア)活動の成果がすごい。今年で44台に達する「車いす」として花開いている。そのうち、平成17年度に購入した4台を、生徒らの念願がかなって、鍵山さんに受け取っていただける運びとなった。

 車いす贈呈式には、全校生徒228名が参加。企画、準備もすべて生徒によって行われた。

 式開始は午後1時45分。生徒の先導で穏やかな笑顔の鍵山さんが登場。講堂も割れんばかりの盛んな拍手の中、深々と最敬礼された。

 瀧口典子校長の歓迎あいさつに次いで、生徒代表から車いすを鍵山さんに贈り、続いて生徒ら手作りの記念品も、一つずつ手渡された。

 生徒らは緊張した面持ちで記念品 を説明する。その都度、鍵山さんはこぼれんばかりの笑みを添えて、温かい掌で生徒らの両手を握り締め、「ありがとう、ありがとう」と、言葉を掛けられた。

 鍵山さんからも、返礼として全校生徒にプレゼントが贈られ、約20分間、講話される。張りのある温和な声で「心と気持ち」「存在感」をテーマに話されたが、その中で〈日本一の中学校〉―と最大級の賛辞で、同校の偉業について評価された。

 一言も聞き逃すまいと傾聴する生徒らの真剣な表情が、会場の雰囲気を熱く感動的に盛り上げていた。

アルミ缶集めを仲立ちに新交流

 平成13年6月当時、地域の清掃活動に取り組んでいた私たちは、毎日拾い集めるアルミ缶などの有効活用を模索。多量の空き缶を地域の施設などに届けていたものの、必ずしも歓迎されてはいなかった。

 何となく気が滅入っていた頃、幸いにも安佐北区社会福祉協議会から日浦中学の活動を紹介された。早速届けると、何と驚くではないか、瀧口校長と河田優子教務主任が玄関先で出迎えてくださった。感激した。

 河田先生は、生徒たちによるアルボラ活動の理解者。生徒らの思いを汲み取り、カタチにされた立役者の一人で、鍵山さんと親交もある。

 同校の教師や生徒らと、新しい交流が和やかに始まった。教師の質の低下や学級崩壊などの嘆かわしい問題が昨今、マスコミなどを通じて取り沙汰され、心ある人たちの胸を痛めている。だが、谷あいに所在する日浦中学は別世界の感じがした。

 アルミ缶を仲立ちに始まった交流から、数多くの学びを得ている。同校を訪問する度に目撃した生徒らの純真な姿は、まさに「エンゼルの再来」と言っても過言でなかろう。

 一例を挙げる。始業前にアルミ缶をトラックに積んで届けた日。寒い同年12月の朝、多くの生徒たちが手洗い場でアルミ缶を洗っている。

 缶の中に捨てられたたばこの吸い殻などを、きれいに除去しているのだった。しかも他に空き缶を丁寧に足で潰している生徒たちもいた。

 理由を聞き、ハッとした。不純物が混ざっていると、価格が低いと言 う。それまで私たちは無造作に拾ったままで届けていた。その行為が生徒らの休憩時間を奪い、いたいけな手を冷水にさらさせていたのだ。

鍵山さん、瀧口校長を囲んで全校生徒らと
「車いす」の記念撮影(2月27日・日浦中学校)

全校生徒らの拍手 に見送られ、
「車いす」を押して退場する鍵山さん

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温かい心が伝わる鍵 山さんの手紙
(3月2日付で、筆者あてに届く)

すべて一生徒の思いから始まる

 気付かなかったとは言え、私たちの無神経な行動は、生徒らに負担をかけていた。これでは私たちにとっても、本来の「心磨き」という目的から大きく外れる。ささいと思える手抜きが、生徒らに重荷を強いていた。本当に申し訳ないと痛感した。

 以来、アルミ缶はきれいに洗浄し、完全に潰した形で届けるように切り替えた。ボランティア活動は時とし て「してやっている」意識が働く。

 本来、謙虚であるべき行いが、対極の傲慢さを生む場合も…。脳天に鉄槌を下された思い。猛省している。

 アルボラ活動は、車いすに助けられた一人の生徒の強い思いがきっかけで開始。またたく間に学級、学年、学校全体に広がり、地域まで動かす大きな運動に成長した。先哲の教え「すべては一人の思いから始まる」の正しさを、日浦中学の教師や生徒らは行動で見事に実証している。

 車いすを一台購入するには、アルミ缶が15万個も必要となる。累計44台を買うには何と660万個、重さに換算して88㌧。気の遠くなるような膨大すぎる数量だ。

熱心な教師らの志と指導で実る

 交流は、アルミ缶集めだけにとどまらない。「自分の後始末は自分でする」「他の人の後始末も進んでする」行いの象徴〈トイレ磨き〉が同 校の授業に採用された。やがて学校を巣立つ生徒の「卒業記念・トイレ磨き」として新しい伝統を育んだ。

 河田先生らは道徳の時間に、鍵山さん著「掃除に学んだ人生の法則」を生徒らに読み聞かせ、ささやかでも行う積み重ねの大切さを説いた。

  鍵山さんの講演ビデオを見せたり、 鍵山さんとの文通も薦めて、既に5年間も心の交流が続いている。

 卒業前に一度ぜひ鍵山さんに会いたい。尊敬する鍵山さんに車いすを受け取ってほしい。生徒らの熱い思いが届いて「車いす贈呈式」として結実。感激の出会いが実現した。

 鍵山さんは、価値ある車いす4台のうち3台を、必需とする来店客の利便のため提供。1台は自宅に置き、 必要な来客と将来に備えるとか。

 今年も3月9日、「卒業記念・トイレ磨き」に、3年生全員が参加して打ち込んだ。トイレに挑み汗を流す生徒らの後ろ姿に、また一つ鍵山 さんの思いが開花した感慨を覚える。

 アルボラ活動やトイレ磨き活動の 「成果」は、瀧口校長や教職員らの熱心な志と指導、生徒らの真摯な実践による意義深い勲章といえよう。

 車いすに寄せた鍵山さんとの交流は、全校生徒をはじめ関係者にとって得難いご褒美になったと思える。

 ふとしたきっかけで結びついた日浦中学の皆様とのご縁が、平凡ながらも実にさわやかで心豊かな日々を私に与えてくれた。感謝でいっぱい。

No.10 ~地元有志の支援で親子らが自然の中で体験学習~

No.10 ~地元有志の支援で親子らが自然の中で体験学習~

真の教育者は人の心に灯を点す

 「教育を衣食住のためにする人を教員という。知識、技術を授ける人を教師という。そして、子供の心に灯を点す人、これを教育者という」

 この一節は、知る人ぞ知る徳永康起先生(故人)の至言である。国民を導く教育哲学者として名高い森信三先生をして、「明治以降のわが国の教育界における『百年一出』の巨人」と言わしめたほどの人物。

 徳永先生の情熱と徹底ぶりは、教育界の代表的な「肥後もっこす」と伝えられる。今もなお、心ある教育者にとっての大きな目標だ。

 徳永先生は熊本県出身で、35歳で校長に就任。だが5年間の校長職を自らなげうって、平教員に降格願いを出す。念願かなって再出発し、生涯一教師を貫くという異色の教育者。詳細を記す余白はないが、その足跡と実績はあまりにも得難い。

 最近の教育現場を垣間見ると、教員教師ばかりが圧倒的に多い。真の教育者に出会えないのが、寂しく幸い。なぜに、学校嫌いの子供、勉強しない子供が増えるのか。それが当然なのか。さりとて、すべてを学校の責任に帰すのも行き過ぎか…。

 私は一般市民なので教員にも教師にもなれないが、立志さえあれば教育者にはなり得ようか。子供の心に灯を点そうと念願し情熱があれば、教育者の真似事ぐらいはできよう。

 私たちの親子農業体験塾「志路・竹の子学園」づくりに気負いなどはなかった。だが、問題多出の教育現場に対する憤りが創設の動機の一つになったのは確かといえる。

雪雨の中で新しい出会いと交流

 今年4月2日、広島市安佐北区白木町志路の現地で、心新たに「竹の子学園」は第三期の入塾式を催す。

 今冬は予想外に長引き、式の前々日には学園付近で小雪も舞った。平年ならば彼岸桜が満開で、塾生らを迎えてくれる。残念ながら、今年は堅い蕾のままで知らぬ顔。昨年は真っ赤に咲き誇った霧島も、まだ蕾にさえなっていない。異例の天候だ。

 今期に集まった塾生は、6年1人、5年3人、4年2人、3年2人、2年4人、1年6人の合計18名。

 塾生をブルー、イエロー、レッドの3チームに分け、それぞれ地元のお世話役に農業指導をお願いした。

 他にも正規塾生ではないが、幼稚園の年長組五名が特別参加している。

 かなり低学年化した今年は、歓声も一段と甲高くにぎやか。同伴の保護者、祖父母、幼児などを合わせると総勢六十六名の構成で、盛況だ。

 塾の学習や行事はすべて屋外で催すので、雨は最大の難敵。プレオープンを含めると第二期まで計二十回開塾してきた。幸いにも、予報は雨模様だった時も天に守られたのか、現実に出会ったことは一度もない。

 今期もテントを二カ所に張って入塾式の準備に万全を期す。朝の式開始前後は小雨でさして邪魔でない。

 ところが、入塾記念品となる「手作り額」製作の時点で、予報にない激しい豪雨に見舞われ、雷も鳴った。

半世紀前のご縁が、今また実る

 過疎地にある「竹の子学園」は、塾生らが耕す田畑七百坪に、山を切り開いて造った公園や遊歩道など計5000坪の土地を使って活動できる。3カ所の休憩所、炭焼き小屋。キッチン棟などの設備も整っている。

 随所に植えられた梅、桜、百日紅、さつき、霧島、金木犀、山茶花、椿などが、四季それぞれに訪れる塾生親子らを楽しませている。都会では味わえない自然の情趣と魅力をプレゼント。竹林を通り抜ける風音のハーモニーさえも、心を癒やす。

 これら学園の環境整備をすべてボランティアで進めてきたのは地元の有志ら。半世紀も前からご縁がある。

 最近、映画「男たちの大和」が大ヒット。実は私の父も戦艦「大和」の護衛艦である駆逐艦「浜風」の機関長として沖縄特攻作戦に出撃し、昭和20年4月7日に戦死という。

 映画の主役が「大和」だったせいか、きれいすぎて戦争の悲惨さ、底辺の国民の苦しみなどは描き切れていない。幼い時、馬鹿でかい「大和」を実際に見て、帰らぬ父の駆逐艦を見送った私。浅薄なシーンの連続で、涙するどころか違和感を覚えた。

 話は前後するが、父の出撃後、私たち兄弟三人は母に連れられて、忘れもしない同年3月28日、父の郷里・志路(当時・高田郡志屋村)に疎開した。見知らぬ人々に囲まれて、住み慣れない農村の暮らしは、子供心にも辛く心細く厳しかった。

 そんな折、何くれとなく親身になって、私たちの面倒を見てくれたのが、親切なお兄ちゃんたち。今や「竹の子学園」を熱く支えてくださる地元の有志で、頼もしい方々だ。

巡り合わせの不思議に感謝しつつ

 五十数年間の歳月を隔って「竹の子学園」をご縁に、再び支援くださり、晩年の人生を有意義に彩っていただけるなんて思いも及ばなかった。

 学園創設に当たり運営・管理の労力は無償で提供してほしい– という私の厚かましい願いを快く聞き届けてくださる。その有志は代表幹事の竹下員之さんをはじめ、お兄ちゃんの佐伯成人さん、佐伯智弘さん、それに一緒に遊んでもらった佐伯孝信さん、一本木宗雄さんという顔触れ。

 加えて今期から、新たに三郎丸栄三さん、吉村博さん両名が支援の輪に…。計7名のお世話役はいずれも往時からご縁の続く昭和一桁生まれのお兄ちゃんばかり。有り難い。

 皆さんの平均年齢は74歳。古希の私なんて、まだヤングである。

 特筆すべきは、陰で支えてくださるお世話役の奥様方。女性らしいこまやかな気配りと素朴な人情が、円満な運営の潤滑油になっている。

 直接の運営には、若いマルコシ社員の金本和宏さん、山野幸恵さん両名が、日曜返上で世話をしてくれる。

 塾生の新目標を今年付け加えた。まず《姿勢を正す》は、金本さんの「気を付け!」の力強い号令一発が見事に効いて美しく整列できた。

 次いで《明るく元気よく》は、山野さんのリズミカルな張りのある声と、きびきびした動きが奏功、子供らが更に躍動的になってきた。保護者らの協力で毎月、《物作り》のカリキュラムも組めるようになる。

 まだまだ「竹の子学園」は、高齢者パワーで更に進化し続けていく。

 ささやかな一灯ながら、教育者の真似事であっても、出会いとご縁を大切に、生命ある限り「一隅」を照らし続けたいと切に願っている。

no.11 ~発展途上の太陽と緑の国バングラデシュ(上)~

no.11 ~発展途上の太陽と緑の国バングラデシュ(上)~

4月29日(土)

ゴールデンウイークに実学の旅

 平成18年4月29日~5月6日の8日間、「志ネットワーク」 (上甲晃代表)の実学ツアーで発展途上国バングラデシュを友好訪問した。

 私は同12年、14年、16年に続き、4度目の参加。総括すると、実に有意義で楽しい旅だった。

 事前に「何か目的で何度もバングラデシュに行くの?」と妻に問われ、とっさの返答に困った。観光でもビジネスでもない。加えて、今回は孫の将宏(小学5年)を同伴する。

 よくよく考えてみると、目的は多岐にわたるので、一言で説明できない。それなりの費用と貴重な時間を使い、楽しみな家族ぐるみのレジャーさえも犠牲にした「実学の旅」。

 隔年の恒例行事だから―というあいまいな理由だけでは、妻を納得させられない。発展途上国の魅力や、不自由ながらも心豊かな人々と交流する素晴らしさなど、あれこれ屁理屈をこねながら煙にまいて、ともかくも出発にこぎ着けた。

 天候に恵まれ、さわやかな日本に比べれば、赤道直下のバングラデシュは気温38度を超える炎熱地獄。わざわざ好んで学びに訪れなくても…という妻の苦言もうなずける。

ごった返す関西空港に驚く

 今年のゴールデンウイークを海外で過ごす日本人は、540万人の推定とか。なんと全人口の20人に1人が海外に旅立つ勘定になる。

 経済豊かな国だから、目くじら立てるほどでもないかもしれない。だが、わが身を振り返りつつ、「これで本当にいいのかな?」―と、忸怩(じくじ)たる思いにもなる。

 新大阪のホテルで前泊し4月29日午前8時、関西空港に到着。それぞれの出国カウンター前に続く長いい行列に驚く。集合の朝9時まで余裕があり、せっかくの好機なので、孫と出発ロビーを一巡してみた。

 孫を同伴した目的はいろいろなが ら、まずは「自分のことは自分です る」課題と目標を与えた。

 手始めは「円」と「ドル」の交換から…。親からもらった小遺いは3万5千円。自分で考えて、3万円分を換えた。交換レートは117円。

 日本のお金が海外で使えない理由を孫に聞かれ、子供にも理解できるよう短時間で説明するのは難しい。

 今回のツアー参加者は総勢36名。うち子供が10名で、ほのぼのとした雰囲気に包まれる。一行には中田宏・横浜市長夫人の詠子さん、長女の久美子ちゃん、次女の千香子ちゃんの母娘3人も顔を見せた。予想外だっただけに、びっくりした。

初体験の孫には戸惑いばかり

 バングラデシュの首都ダッカヘ飛ぶルートは、直航(週一便)、バンコク経由(日一便)、シンガポール経由(日一便)の三通り。今回はチケットの都合で、最も時間のかかるシンガポール経由便になった。

 関空で出国手続きから離陸まで2時間半、シンガポールまで5時間半、乗り継ぎの待ち合わせが3時間余、ダッカまで4時間。待機やフライトを含めると計15時間余に及ぶ。

 長時間の空旅に、早くも孫らは「長すぎる。疲れた」と、ぐったり。

 ダッカ市内の宿「スイート・ドリーム・ホテル」到着は、日本時間で4月30日の午前2時。日本と現地では3時間分の時差がある。調整すると、前日の午後11時に逆戻り。

「どうして、そうなるの?」という孫の質問にたじたじ。「とうに日本なら寝ているよ」とぼやきながら、孫は一人で荷物を整理していた。

 ホテルの周囲にたむろしている物乞いの群れを見て、孫は「かわいそう。何かあげようか? 知らん顔するのは悪いよ」と、同情も…。

 どうやら、質問と疑問攻めの同伴ツアーになりそうな予感がする。

4月30日(日)

バングラデシュの暮らしぶり

 一週間程度の滞在だから、同国の暮らしぶりは的確に分からない。だが、拙い英語をつなぎ合わせたり、ベンガル語のカンニングペーパーを活用して、知り得る範囲で農村などの暮らし向きを推察してみた。

 高校教師レベルの月給は約8千円、工場労働者の日当は200~300円。主食の米は1kg150円、牛肉が1kg300円。ガソリンは1リットル90円などで、値上がりの傾向が続く。

 同国の主要交通手段・リキシャ(三輪自転車でタクシー代用)は首都圏を中心に27万台も稼働しており、客を1km乗せて走ると約十円の収入。独特な昧のバングラティは至る所の店で一杯5円で飲める。

 農村にガス、水道の設備はない。電気を引く農家はあるが、使える時間は一日に2~3時間程度で、さほど生活の役に立つとは思えない。

 ただし、都市部ではインフラ整備が進み、日本ほどエネルギー供給などが豊かでないものの、生活上の不自由は感じられない。

 満たされた生活に慣れ切っている孫には、全くの別世界で初体験ばかり…。だが、「みんな笑顔で親切…。もっと日本人も他人に対して、優しくせんと…」と正直な感想をもらす。

現地の人や子供らと再会を喜ぶ

 ダッカから車で2時間北上すると、カパシア村にある国際エンゼル協会(本部・兵庫県)の現地施設に着く。

 民間の国際援助活動の一環で、小学校、農場、縫製工場、医療施設、孤児院などを併設。同国の教育や職業技術指導に大きく寄与している。

 私にとって4度目の訪問だけに、現地責任者のアジズル・バリさんら顔馴染みの幹部・職員をはじめ、黒い瞳の子供だちと再会を喜び合う。

 6年前の初訪問時にタワシ、スポンジ、洗剤などのトイレ掃除用具一式をトランクにいっぱい詰めて持参、施設やモスク(イスラム教の礼拝堂)などのトイレを一緒に磨いた日を懐かしく思い出す。

 以後も訪問の度に用具を補充するが、存分に使われた形跡はない。

 歓迎会では現地の子供たちが、同国の民族衣装をまとって踊りや歌を披露してくれた。フィナーレは、日本の唱歌「ふるさと」の合唱。

 わが国を代表する名曲を、異国の子供たちと歌うのは嬉しい反面、とても恥ずかしく思った。

 というのも、孫をはじめ参加した日本側の子供たちは、誰でも知っているはずの同曲が歌えないのだ。

 困ったことだが、日本の学校教育は、どこか間違っている―と痛感した。

No.12 ~発展途上の太陽と緑の国バングラデシュ(下)~

No.12 ~発展途上の太陽と緑の国バングラデシュ(下)~

「志ネットワーク」(上甲晃代表)の主催する実学の旅『バングラデシュ・スタディ・ツアー』 十周年企画に、私は孫の将宏 (小学五年)を同伴して参加。平成18年4月29日~5月6日の8日間にわたり、発展途上国バングラデシュを友好訪問した。ツアー一行は、子供を含めて総勢36名。実に有意義で印象深い体験学習の旅だった。

5月3日(水)

バングラデシュの医療の実情

 実学の旅は当初から、炎暑と過密スケジュールの連続だけに、一行のうち、私たち高齢者は口ほどにもなく、へたばってしまった。

 ところが意外にも、弱いはずと思い込んでいた子供たちは順応して、予想以上に元気で飛び回っている。危なっかしくて目が離せないものの、ひとまず安心する。

 3日午前8時から約1時間のモーニングセミナーでは、日本に留学して山形大学で学んだ整形外科医のD・ラーマン先生(44歳)から「バングラデシュにおける医療の現状」について講義を受けた。

 その要旨は以下の通り。

<ラーマン先生の講義>
医療の問題点は深刻な現状

 私の学んだ日本の医療システムは極めて優れており、ぜひともバングラデシュでも生かしたい。

 現在の最大の悩みは、わが国に医療保険制度がないこと。貧しい人々が数多く、保険制度が成り立ち得ない。貧しい人々にこそ保険制度は必要で不可欠なのに、政府はその矛盾を全く理解していない。

 とりわけ、国民は、医療に対する知識も足りないし、理解も乏しい。

 病気の原因は医者に診せれば分かり、痛みは薬を飲めば和らぐ、それすらも知らない人が多過ぎる。村々を巡回して「医療を受けよう」と強く説くが、住民たちからは、一向に聞き入れてもらえない。

 設備が整った大きな建物の政府系病院は増えている。しかし、建物や設備が良くなれば、良質な医療ができるとは限らない。人材が肝要。

 政治の質が良くならないと、より良い人材が海外に流出してしまう。

 すべての人々が幸せにならない限り、安全安心な暮らしもできないのに、政治家には、貧しい人々のために働こうという意欲も、志さえも乏し過ぎる。

施設も医師も絶対数が不足

 何よりも、より良い政治家を育てる一方で、優れた人材が国家のために働ける環境づくりこそが必要だ。

 医療関係の中でも、志の高い医師の場合、午前を政府系病院で働き、午後を民間で働いている。

 政府系病院は全国64県内に1院ずつできたが、20床規模の公立病院が460院、村の診療所も約1万院あるだけ。約1億4000万人の国民に対して、施設も医師も圧倒的に不足している。  病人の70%は自然治癒を待つ。残る30%は病気になったら、死ぬのは当然」と考え、病院に来ない。「お金は不要だから…」と勧めているけれど、それでも来院しない。

 民間の-医師として、本当に力不足だが、地道に取り組みを続けていけば、必ず誰かが志を引き継いでくれるだろう。それを信じて、今は前に進むしか道はない。

日本人の贅沢さ、平和ボケ痛感

 今回の受講から、恵まれ過ぎる日本の医療にも思いが及んだ。離島や過疎地を除き、病気になったら、すぐ病院や薬局へ走り込める。そんな便利な仕組みが当然になっている。

 他国から見れば、至れり早くせりの医療の制度や環境にさえ、人によっては不平不満を絶やさない。  マンネリになってしまった日本人の贅沢さを痛感する。

 パキスタンから分離独立して35年を経た今もなお、医療に対する国民の理解が得られないバングラデシュの実情は、決して看過できない。

 ラーマン先生は、「リーダーの欠如以外の何ものでもない」と、ズバリ指摘する。そこには、想像を絶した残虐非道極まる深刻な歴史の実情があった。

 支配国であったパキスタンは、バングラデシュの独立戦争当時に新しい国家のリーダーとなるべきはずの人材を約300万人も殺戮したのだ。

 その慄然となるほどの事実が今も尾を引き、指導者層も薄く、重要かつ至難な問題は山積したまま。

 平和である有り難さは、このような戦争の悲惨さ、残酷さを本当に知ってこそ、実感を伴って伝わっていく。今回も痛切に身に染み込んだ。

人生を見直す感動の出会い

 M・オマール先生(40歳)は、ラーマン先生の4歳離れた弟だが、やはり日本に留学して宮崎大学と鳥取大学で口腔外科を学ぶ。今は首都・ダッカ市内にあるダッカ山形記念病院で兄第が一緒に働いている。

 両先生の古里は、同国東部のインド国境に近いラクシャン郡フェヌマ村。豊かな自然環境に恵まれて、人口は、約5000千人、うち子供は約500人。少子化現象が著しいわが国と比べると、実に羨ましい。

 オマール先生は、無医地区のフェヌマ村で孤児院をボランティアで経営している。併せて、病床つきの本格的な診療所までも建設中だった。  ダッカから車で4時間半かかる。国道は整備されているが、村に入ると、そこは何と道なき道の様相。

「命からがら」という表現も大げさでないほど、ヒヤヒヤ、ビクビク続きのドライブだったが、マイクロバス2台で3日午後1時半頃、何とかツアーの全員が無事に到着した。

 孤児院は「ボンズ・クティ」 (友達の家) と名付けた施設で、親のいない24名の子供たちを養い育て、通学させている。その費用はすべてオマール先生の私財から捻出される。

 大切な資金の中から、私たちのために用意された心温まる手作りの昼食、そして食事運びなどを手伝う子供たちのつぶらな瞳と明るい笑顔に、目頭が潤むひとときだった。

 長時間の道中の間に、実はオマール先生のすばらしい立志と生きざまを、じっくり拝聴でき、深い感銘を受けていたせいもある。

<オマール先生の話>
後から来る人のために道を開く

 私は古里における社会貢献活動に生涯を懸けているが、出来得れば、将来は学校建設も夢見ている。

 日本留学中に、私たち兄弟が支援を受けた山形大学の大島義彦教授から「国のために働いてください。後から来る人のために、道を開いてあげてください」と励まされた。

 この一言こそが私の生き方の原点になった。私の活動は古里への「援助」ではない。「使命感」である。

 お金のためではなく、外国のためでもなく、自分の国のために働き続ける。自分のために何かをするのではなく、他人のためにすべてを捧げる決意をした。

 国は箱を造ってくれる。けれども魂を入れてはくれない。残念ながらも、この国では大人を変えるのは難しい。まず子供を育て上げて、その上で、大人も変えていきたい。

 バングラデシュは、世界第一級といえるほどの自然に恵まれた国だ。すべてが必ず良くなると信じて、活動を続けていく決意だ。

 私が生きているうちに、夢はかなわないかもしれない。だが、道さえ開いておけば、必ず後から歩く人が生まれてくる― と確信している。

父の生き方を誇り、学び、尊敬

 祖父は教師だった。父(80歳)はバングラデシュでは著名な教育者だ。一代で学校を興して現在、ハイスクールなど3校を経営し、生徒数は4000人を超える。

 幸い私は進級・卒業できたが、妹は不合格で他校に転校させられた。

 首相や大臣の子供であっても、所定の成績に届かなければ入学・進級・卒業はできない。

 原則に忠実で、しかも公平な運営を心掛けている。その揺るぎない姿勢が学校の評価を高めている。

 父は ①良い人間であれ(知識より人間性、正直)。 ②大いなる存在を信じよ(畏れよ、神を信じよ) ③勤勉であれ(続けよ)― と、教えてくれた。

 私は生き方のすべてを、父の言葉と行動から学び取つた。祖父や父、兄を尊敬し、誇りに思っている。

 私たちの力は小さい。「だから、駄目」と思って諦めたら、何もできない。ともかく続けることが大切だ。

 理想は高く掲げ、活動は休まず地道に続ける。そうすれば、いつの日か必ず、夢がかなうと信じている。

 <注記>大島教授は、平成15年9月7日に他界。享年62歳。

「援助活動ではない。使命感だ」

 オマール先生の気高い志に接して、私は己の生き方を根底から見直す強烈なきっかけを与えられた。

 相次いで、兄弟お二人の国家、古里を思う熱き志、医療、教育に傾ける情熱を知ることができた。

 この日は期せずして、お二人と得難いご縁がつながり、バングラデシュ滞在中でも最高の感激を味わい、かつてない大きな学びを得られた。

 とりわけ、オマール先生の「援助活動ではない。使命感だ」と言われた言葉は目が覚めるほど衝撃的だ。

 ともすれば、萎えそうな私の心の炎を再点火し、私なりの熱き志を再構築するためには、十分過ぎるほどの貴重な出会いとなった。

 西に向かって帰る道すがら、オレンジ色の太陽が刻々と沈む美しい夕焼け空を堪能できたのも印象的だ。

 さすがに疲れたのか、車中では一行の言葉数も少なく、居眠り組も目立った。戻ったダッカ市内で遅い夕食をとり、夜11時に宿に帰着。

 孫は、シャワーも浴びないまま寝込んでしまった。私といえば、昼間の出会いとご縁に啓発されていたためか、心の高ぶりがやまず、例によって、はがきを書きながら深夜2時まで起きていた。充実した一日…。

No.13 ~「朝一番!」活用し、生活リズム一新~

No.13 ~「朝一番!」活用し、生活リズム一新~back_14_00

毎朝届く元気いっぱいのFAX

 「朝一番!」 (午前1時40分)

 若き日に 千辛万苦積むならば

        老いての後に 光りそうらん

 おはようございます。曇り空の涼しい朝。元気で1時半にスタートできました。今朝も朝一番のトラック便が、材木を満載して岩手から到着。荷物を降ろして、もう一台、今日中に来る由。更にその後、夜積みして明日の朝、来てくれるとのこと。

 彼は今年67歳かな…。健康であれば、いくらでも働けますね。

 これから価格指示、見積り・請求書のチェック、そして公衆トイレの掃除、現現作業と続きます。

 昨日は午前中、見積りあり、来客ありで忙しい時間を過ごしました。午後は土浦市場に買い付け。

 いろいろな人の話を総合すると、忙しい店とそうでない店がはっきりしてきた。また忙しく材を動かすのに利益に結び付かない。代金回収で問題が発生― なとでした。

 これから年末にかけて、より慎重に、より迅速に、と願う次第です。

 「誠意は必ず通じる」

 どんなに立派な身なりでも、どんなに話し上手でも、誠意がなければ人の心はつかめない、誠意は人の心を動かす大きな力。「これだけ誠意を尽くしているのに…」という気が起きるのは、その誠意が本物でないから。「誠意は必ず通ずる」。その強い信念を持って事に処したい。

 今日も良い1日でありますよう…。

全社員が朝礼で朗読し学ぶ

 冒頭に掲げた短歌付きの長文(一部省略)は茨城県在住の前川静夫さん(前川林業社長)から、毎朝2時前後に手書きFAXで届く一例。

 365日休みなし。内容は教訓と示唆に富み、とことん深い。わが社では朝礼で全員が朗読し、社長が解説を加え、しっかり学んでいる。

 満62歳の前川さんは朝型人間だ。早いときは午前1時、遅くても午前2時には起床。自宅に近い公園のトイレ清掃、会社前の国道6号線(水戸街道)のゴミ拾い、加えて一万歩のジョギングも欠かさない。

 前川林業は北関東最大の木材問屋で、木材置き場の敷地は1万5千坪を超える広さ。自宅は東端で、事務所は西側に位置する。だから、前川夫人はその敷地を自転車で通勤するし、訪問客が国道から材木置き場を通って自宅に至るまでに、タクシー料金ならワンメーター上がる。

 驚くなかれ、その広大な敷地にタバコの扱い殼一つ落ちていない。年に3回開かれる展示即売会では、材料が整然と並べられ、隅々まで掃き清められている。信じ難い光景だ。

 わが社の社員は全員、一度は前川林業を訪問する。仕事柄、木材や建材の勉強が主だが、仕事に取り組む前川さんのひたむきな姿勢と、見事な5S(整理・整頓・清掃・清潔・躾)の徹底ぶりを学ばせていただく。

 それだけに前川さんから毎朝欠かさず届く「朝一番!」のFAXは、社員に十分理解され、確かな行動指針にもなる由縁だ。お陰で社員の仕事に対するモチベーションを大いに高めてもらっている。ありがたい。

 前川さんとのご縁は、平成13年(2001年)11月、横浜市の光田敏昭さん(夢工房だいあん代表)のご紹介による。光田さんは「日本を美しくする会」で掃除の畏友。

 以来、FAX通信の「朝一番!」は5年間、1800日を超えてなお1日も休まず届き続けている。

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布袋様とも見紛う元気あふれる前川さん(左)と談笑する筆者

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多種多様な資材類が整然と並ぶ前川林業の広大な木材置き場

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FAX通信「朝一番!」はすべて製本して保存。折にふれて活用している

茨城と広島を結ぶ新たな流通

 当時、わが社は自然素材を生かした「本物リフォーム」を志向していた。国産のヒノキ、スギ、マツなどの建材をふんだんに使い、香り豊かで健康的な住まい造りを目指した。

 残念ながら、良質な素材は入手しにくく、しかも高価だった。

 お客さまの根強いニーズがありながら、デリバリーと価格面で十分な対応が難しかった。しかし、真剣に願えばかなうものだ。前川さんとのご縁がきっかけとなって、良質な資材の産地直送が可能になった。もちろん仕入れ価格も、予想外に安い。

 高価なヒノキ材は東濃(長野県)や吉野(和歌山県)、スギ材は秋田県、マツ材は岩手県など、零細リリフォーム店では及びもつかない流通ルートが開かれた。それだけではない。前川さんのご好意で、信じられないほど多種多様な素材が調達できた。

 これを契機に「自然派リフォームのマルコシ」を、表看板に打ち出して営業展開を本格化している。

 ご縁とは誠に不思議である。事業を始めて以来40年にわたり、夜型人間を標榜してきた私の生活パターン。だが前川さんを見習ってガラリと朝型人間に変身できたのだ。 「早起きは三文の徳」というが、以後の生活リズムは私に計り知れないほど、多くのメリットをもたらす。

 3年半前、冒ガンの全摘出手術を受けた。その時から、前川さんの足元にも及ばないが、遅くとも午前4時起床、五時出勤を続けている。

心温まるもてなしに感動

 夜型から朝型に切り替わったせいか、主治医も驚くばどの健康休に生まれ変わった。ただ、食事能力は依然として回復しないため、残念ながら人様の前で食事ができない。

 胃袋がないので、咀嚼で溶ける物しか食道は受け付けない。溶けない物は吐き出す仕儀となる。みっともないし、失礼になろう。だから食事の席はどんな場合も、その旨を事前にお伝えし、遠慮させていただく。

 根菜類と焼き魚は大丈夫だが、肉類、刺身、タコ、イカ、貝類、野菜の一部(繊維の多いもの)は受け付けない。従って、日常の食事はきわめて簡素で粗食である。

 7月下旬の暑い日に、前川さん宅を訪問した。会席料理風に昼食が用意されている。正直、内心では「困った」と思った。もし食道が受け付けず叶き出すざまにでもなったら…。

 だが、心配は杞憂だった。出された料理は一品残さず頂けたのだ。すべて前川夫人の手料理で、実にこまやかに配慮くださっていた。

 エシャロツトの梅肉和え、アスパラガスの胡麻和え、トマトの梅ジュース浸し、アボカドのわさび醤油和え、蜆の味噌汁、金時豆の甘煮、瓜の漬物、メロン、特上にぎり寿司。

 特に蜆の味噌汁は、恐る恐る頂いた。苦手な貝類だから、病後は全く食していない。何と、唾液で溶けて食道も受け付けるではないか。もはや今後は貝類を味わえないと諦めていただけに、その嬉しさといったら、言葉に表せない大感動だった。

 霞が浦の海水と淡水の境目に棲息する極めて貴重な蜆…という説明を受けて、再び感激した。

 この時のメニューの素材や味付け方法などを前川夫人から学んで後日、わが家でも妻に再現してほしいと願っているが、果たして…?

 前川さんご夫妻との得難いご縁は、大いなる力(サムシング・グレート)に導かれた、かけがえないのプレゼント― とつくづく実感している。

No.14 ~不思議なご縁に導かれ61年目に親孝行の献花~

No.14 ~不思議なご縁に導かれ61年目に親孝行の献花~back_15_00

日本国は戦争など願うはずない

 いきなり生臭い話で恐縮だが、5年半前に「自民党をぶっ壊す」と叫んで登場した小泉純一郎サプライズ内閣が、公約通り日本の政治システムを根底から覆して退陣した。歴代3位にランクされる異例の長期政権として、毀誉褒貶はあるものの日本の政治史に大きな足跡を残した。

 続いて若い安倍晋三内閣が、腰骨をしっかり立てた政策を掲げ誕生した。政治には門外漢だが、破壊された跡地を整地して、新しい日本を築く希望の見える新政権として歓迎している。老害のかけらも見えないのが、私には何とも好ましい。

 安倍内閣を評して、口達者な田中真紀子衆議院議員は、衆議院予算委員会で代表質問に立ち「小さな子供がいたずらで大人の靴を履いて道路に出てきた印象。しかも右へ右へと歩くので危なっかしい」と毒舌のし放題。テレビで見る限り、その態度も、論調、口調も下劣極まりない。一国の総理に対して失礼であろう。

 社民党の福島瑞穂党首は、新内閣の印象を聞かれ「戦争をする内閣」と、持論というよりも偏見的な口癖で切って捨てた。政策の一環として憲法改正を掲げれば、即、戦争につなげるのは短絡的で幼稚な論理だ。

 戦後61年。大きな犠牲を払って平和の尊さを知った日本が、好んで戦争など願うはずはない。いくら福島氏や極左勢力が根拠のない論理で安倍内閣を批判しても、日本には戦争賛成の勢力など存在しない事実を国民は知っている。為にする発言など、嘲笑する程度ではないか。

 日本があの悲惨な戦争を繰り返さないことは、半世紀を超える足跡により、はっきりと証明されている。

呉海軍墓地に英霊3万6千余柱

 広島県呉市に平成17年からオープンした「大和ミュージアム」。来館者が引きも切らず、平日も賑わっている。とりわけ、20分の1の大きさに再現された不沈戦艦「大和」の精巧なモデルが人気の中心だ。

 知名度の高い戦艦「大和」は太平洋戦争敗戦の象徴として、戦争を知らない若い世代層にも広まっている。

 しかし終戦直前、「大和」と共に沖縄特攻作戦に参戦した第二艦隊9隻の運命は、歴史の表側に登場しないし、ほとんど語られてもいない。

 沖縄特攻作戦は、「大和」を旗艦として、巡洋艦1隻、駆逐艦8隻の計10隻の編隊で展開された。

 私の父は、第二艦隊所属の駆逐艦「浜風」の機関長として従軍したが、米軍機から投下された魚雷の命中で艦が沈没、戦死した。昭和20年4月7日12時48分という。

 呉市長迫町の「呉海軍墓地」には「大和」など、太平洋戦争で散った90隻の慰霊碑群が立ち、戦争の残酷・悲惨さを物語る。合祀されている英霊は、3万6千余柱に達する。

 私は小学校3年まで海軍墓地に近い呉市東鹿田町に住み、長迫小学校で学んだ。腕白少年時代の思い出多い場所。それだけに熟知しており、家族と一緒にしばしば海軍墓地にお参りし、母校も訪問している。

 毎年9月23日には「呉海軍墓地合同追悼式」が挙行され、平成18年が36回目だった。広島県知事、呉市長、国会議員を含め、生存される元乗組員や遺族など関係者が二千余人も参加し、英霊に対して不戦の誓いと哀悼の誠を棒げている。

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父が最後を共にした駆逐艦「浜風」の雄姿

記憶はおぼろだが、天の啓示か

 今年も同じ日に、合同追悼式が営まれた。光栄にも、私は遺族代表として、献花の大役を与えられた。

 事そこに至るプロセスを振り返ってみると、目に見えない不思議な力に導かれた思いがしてならない。

 父の命目の4月7日、お盆の8月13日、それに合同追悼式の9月23日の毎年3回、私は呉海軍墓地の「浜風」慰霊牌に参拝している。

 父の戦死は「昭和20年4月7日南太平洋方面ニテ戦死ス」の公報で知らされた。文字通り紙切れ一枚。遺品もなく、戦死の状況も分からない。せめて父の最後を知りたいと願いながらも、何もせず時間のみ過ぎていた。親不幸の極みであろう。

 今年のお盆に参拝した時、たまたま「浜風」慰霊牌に備えてある一年間の参拝名簿をめくった。お参りされる方の大半が「遺族」と記した中に、「乗組員」と書き込んだ4人の住所・氏名があった。早速メモしたけれども、それっきり忘れていた。

 5日後の雨の朝、目覚めると、机の上に筆で宛名書きだけした4通のはがきがあった。それぞれ符丁もどきの文字で判読できず、身に覚えもなく考え込んでしまった。よく見ると一枚はかすかに「武田」と読める。あの時にメモした元乗組員の氏名かなと、しばらくして思い当たった。妻の話では、深夜なのに筆を持ち、机に向かう私を見たという。

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英霊が眠る駆逐艦「浜風」の慰霊碑

 記憶はおぼろだが、すぐ消息を尋ねよ― という天の啓示と受け止め、即はがきでお便りをしたためた。

 「武田」とは「浜風」の砲術長だった武田光雄大尉で、元乗組員で組織する「浜風会」の会長と判明した。残念ながら今年一月にご他界。

 お一人だけ、病で動けないが― と、封書で「浜風」の最期を教えていただいた。呉市在住の松岡政秋さん。

 そのご縁から巡り巡って、遺族代表として献花の役目― という思いもかけない成り行きとなる。他のお二方からは、今も連絡がない。

父の死の瞬間を初めて知る

 合同追悼式では、初めて父の名が読み上げられた。「遺族代表、献花。駆逐艦・浜風機関長、海軍大尉木原京一郎殿長男、木屈伸雄殿」…。公式の場だけに、感無量となり一瞬、身体が硬直したような錯覚を覚える。何よりの親孝行にもなると思えた。

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61年ぶりの親孝行 ~遺族代表で献花し、父と対面~

 式後の「浜風会」の席で、元乗組員で父の部下だった機関部下士官・梶原茂さん(兵庫県在住)に出会う。

 そして、「魚雷が機関部に命中、父が吹き飛んでいった」という情景を、遠くから目撃した梶原さんから初めて事細かに聞くことができた。

 そのむごたらしい父の姿・有様は、筆舌に尽くしがたく、とうてい詳細をここに記す

気になれない。

 梶原さんは海に投げ出され、波間で漂いながら「大和」が轟沈する瞬間を目撃し、絶望したという。「大和」は絶対に沈まない、必ず助けてくれる― と信じて海中にいた人たちの気持ちは察して余りある。どの艦も薩摩・大隈半島の西方沖に眠る。

 浜風の乗組員356名。内訳は戦死100名、生存256名、うち重傷11名。梶原さんは全身火傷を負う重傷だが、九死に一生を得た。

 戦後を生き抜いて来て、83歳。骨の髄まで平和の有り難さを痛感しているという。決して戦争があってはならないし、国家による人殺しは許されぬ犯罪だ- と力説された。

 小泉首相(当時)の靖国神社参拝が戦争につながる― と、一部の勢力やマスコミは批判していた。

 だが、英霊に対して心から哀悼し、不戦の誓いを固めることは、今、平和な日々を過ごしている日本国民すべての責務と思えるのだが…

No.15 ~小河イズムに触発された「あいさつ通り」が奏功~

No.15 ~小河イズムに触発された「あいさつ通り」が奏功~back_16_00

島根を走って驚く/益田の点描

 広島市安佐北区の自宅から事で国道191号を西に向かい、広島県北広島町戸河内の分岐から北へ走ると約二時間半で、<山陰の小京都>と称される島根県益田市内に入る。

 益田市は人口5万2400人(2005年国勢調査)の小都市ながら、面積は733平方キロメートルに及び、島根県で最も広い。同市の美都地区、匹見地区は90%近くが山林だが、高津川下流に広がる益田平野は日本海に面し、過疎地とはいえ、風光明美で名所旧跡も数多い。

 島根県内を事で走って驚かされるのは、至る所で網の目のように張り巡らされた農道の整備ぶり。信号のない幅6mの道はドライブに快適だが、滅多に単にも人にも出会わない。益田市周辺も例外ではない。

 島根県は公共投資率の高さ日本一の地域として知られるが、どう見ても無駄な投資が多過ぎる。車の走らない道路を造っても、さほど住民にはメリットを息じたらさないと思えるのだが…。日本政治の貧しさと権力構造のあくどさを象徴する実例が集約された現場- と思えてならない。

 平成17年10月には、島根県芸術文化センター・グラントワが益田市内に開館した。延べ床面積17800平方メートル。屋根、外壁ともに石見地方の石州瓦を使ったデザイン性の高い建築物で、周囲の自然に見事に溶け込んだ豪華な空間である。

 同市内にある雪舟庭園、萬福寺庭園、医光寺庭園、万葉公園などの優れた庭園作品も圧巻で、長い歴史と極めて文化性の高い古都といえる。

日本一の座を誇る自動車教習所

 益田市街地に入る手前の道路を左折し、前述の農道を20分ほど走ると、右手に三方を山に囲まれた瀟洒な建物が並ぶ自動車教習所に至る。天下に名高い益田ドライビングスクール(略称・MDS)である。

 少子化現象の著しい現在、全国の自動車教習所は相次いで閉鎖を余儀なくされている。自動車免許を取得する若者が少なくなったのだ。

 MDSは全国でも数少ない滞在型教習所で、真面目に学ぶならば、約2週間で運転免許証が取得できる。

 年間で約6000人の卒業者を誇り、滞在型では日本一の座を保持し続けている。しかも島根県内在住の生徒はわずか3%未満というから感服する。つまり全国から飛行機、新幹線、送迎バスなどを利用して、過疎化の目立つ地方都市まで若者らが集まってくる。信じられない現象を示す。

 MDSの敷地は5万坪。小高い緑の山に恵まれ、練習コース脇には桜、樺、樫などの木々が植樹されている。一見、教習の邪魔になるように思えるが、実は心穏やかで慎重なドライバーが育つというから、環境は教育効果を左右するポイントと分かる。

 ここのオーナーは島根県内で数社の企業を統括する小河二郎さん。古武士の風格も漂う84歳で、飄々とした雰囲気も持ち味。MDSの発展・繁盛は、小河さんの確固とした人生観を抜きにしては語れない。

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道を開いていただいて
人生の師・小河二郎さん

燮(やわらぎ)の心…MDSの魅力

 平成9年5月に、旧知の町原裕貞さん(益田市・キヌヤ会長)から紹介いただき、初めて「益田掃除に学ぶ会」に参加した。前夜祭の会場と宿舎に、MDSの大ホールと宿泊設備が用意され、随所でおもてなしの心がうかがえて、胸に響いた。

 受付を済ませた後、幸運にも鍵山秀三郎さん(日本を美しくする会・相談役)のお供となって、MDSのシンボルである「燮の塔」まで、小河さん自らがご案内くださった。

 シルバーメタリッタ色の塔は、日本海の夕日を浴びて真っ赤に染まっていた。本当に感動的な光景。

 以来、今日まで交流いただいているが、実に印象深い出会いだった。

 「燮」という漢字は初めて拝見したが、小河さんの説明によると、満ち足りた心を指し「ほどよくする」「やわらげる」意味があるそうだ。

 「燮の心」とは、「良知に致る」ことであり、人間は生まれながらに素晴らしい知恵、良い心を持っており、そんな心に素直になるのが「致良知」で、それこそがMDSの精神ですー と、強い口調で語られた。

 MDSには、すべての人が守らなければならないルールが、たった一つだけある。即ち「人に会ったら、必ずあいさつする」。それだけ…。

 校舎のすぐ近くに「あいさつ通り」と呼ぶ狭い小路がある。小河さんは「細い道にこそ、あいさつが似合うね」とにっこりされた。お互いの顔が分かる近距離で擦れ違えば、知らない人同士でも、気軽にあいさつし合える。「あいさつには笑顔が付いてくる!」‥・。意外にも一瞬、雷に打たれたような閃きが走り去った。

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小高い緑の山に囲まれたMDSの全景。左が「燮の塔」

「あいさつ通り」の誕生と経緯

 最近の若者はあいさつもロクに出来ないというが、MDSでは違う。ピアスを看けた若者、髪を茶色に染めた学生、みんな笑顔を添えてあいさつしてくれる。彼らは出来ないのではない。教えられていないのだ。

 帰広後すぐ「閃き」を実践に移した。近くの小学校通学路の陸橋を中心に100mの間を、勝手に「あいさつ通り」と決め、フェンス沿いに大きな横断幕を張った。ところが、大人も子供も素知らぬ顔で通り過ぎる。

 1カ月過ぎても変化はない。なぜMDSのような元気で明るいあいさつが飛び交わないのか。考え込んでしまった。しばらくして、ようやく気が付いた。あいさつは簡単なようでも、実は難しい行いだーと。

 昨今のように、他人のことに無開心なままでいると、あいさつなどは不要になる。あいさつしなくても少し不愉快な思いをする程度で、各人が生きていくのに何ら支障ない。だから、あいさつなど煩わしくなる。

 同年6月下旬、いささか照れくさかったが、通学路に立って、「おはようごぎいます」と声掛けを始めた。あいさつに慣れないせいなのか、それとも警戒されるのか、子供たちはそっぽを向いて行き過ぎる。がっかりして顔まで引きつってくる。

 次はゴミ拾いしながらの「おはようごぎいます」に切り替えた。効果てきめん、少しずつ子供たちから元気の良いあいさつが返るようになった。うれしい。ここまでくれば、後は続けるだけだから、気も楽だ。

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約10年の風雪に耐えた「あいさつ通り」の大横断幕[広島市安佐北区]

10年続けて真の意味と価値を実感

MDSは若者を変える自動車教習所。今も評判が高い。だから全国から生徒が参集する。その秘密は「あいさつ」。人生の師から道を開いてもらった。小河さん直伝の「あいさつ通り」の意味と価値が、約10年続けて、やっと実感として理解できる。

 わが町にも元気なあいさつと笑顔が行き交う通学路が実現している。声掛けメンバーも10人に増えた。だが、大人の心を開くには至らない。

No.16 ~心温かき仲間に支えられ、日本一美しい町を目指す~

No.16 ~心温かき仲間に支えられ、日本一美しい町を目指す~back_17_00

市が環境美化功労者を表彰

 師走に入った平成18年12月1日、広島市役所の2階講堂で、第36回「広島市環境美化功労者」の表彰式が、秋葉忠利市長、市議会議長、各区長をはじめ市幹部らの臨席の中で行われ、有意義だった。

 表彰は6部門で、各地域で清掃活動を継続する個人と団体が対象。

 活動5年未満の精励者、同5年以上、同10年以上の永年にわたる実績が認められた個人は45名、団体は35グループ。いずれも、すばらしい活動ぶりで、敬服する。

 個人の大半は善意の高齢者、団体は地域の自治会や老人会などがほとんど。残念ながらも、企業はわが社を含めて5社で、極めて少ない。

 団体の中に専門学校と中学校が各1校、小学校が2校含まれていたのは、実に嬉しい限りである。

 選考の経過はつまびらかではないが、とかく見過ごされがちな地道な活動にスポットライトが当てられるのは、歓迎すべき配慮であろう。

 祝辞の中で秋葉市長は「環境の美化は行政だけでは十分でなく、市民の善意に負うところが大きい。名実ともに国際平和文化都市にふさわしく美しい街づくりに、皆さんの格段の協力をお願いしたい」と、心を込めて強調された。

 しかし、せっかくの意義ある表彰式なのに、マスコミ側の当日取材は1社もなく、心温まる善意の人たちの地道な活動が、全く報道されなかったのは腑に落ちない。隠れた市民らの菩行だけに、もっと脚光を浴びても良いと思う。マスコミ各社は、どう考えているのだろうか?

「例外をつくらない」心意気

 わが社の地域清掃活動は、18年前から始まった。最初の頃は一人で取り組んでいたが、いつの間にか全社的な活動に広がっていった。

 誰にでもできる平凡な行いを、休まず続け、地域に役立てる- それは人としても企業としても、ごく当然な取り組み。当初から「例外をつくらない」と決め、晴雨にかかわらず欠かさなかった。一方、平成11年1月9日にスタートした「JR駅トイレ磨き」も例外ではない。毎週土曜日午前4時半から6時まで…と決めた。早朝から取り組んだのは、一番電車の発車までに掃除を終えて、乗降客に迷惑を掛けないための気遣いである。

 しかし、「例外をつくらない」心意気は、そう簡単でないと痛感した。

 平成17年の第1土曜日は元旦。しかも厳寒で20cmも積雪があり難儀した。それでも仲間は集まり、素手で便器を磨き上げた。ゴールデンウイークやお盆の夏休みにも、土曜日は巡ってくる。時には休日の家族レジャーを犠牲にする場合もある。

 心温かき仲間の応援もあって、平成18年11月11日には連続400週のJR駅清掃を達成できた。記念にささやかな「寄せ書き」を仲間と作成し、お互いに喜び合った。

 現在の掃除範囲は、JR芸備線の安芸矢口、玖村、下深川、中深川、上深川、狩留家の6駅に及ぶ。トイレの悪臭や線路の煙草の吸い殻などを追放し、ホームも待合室までもゴミのない駅にリフレッシュした。

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毎日の清掃は「気を付け」の朝礼からスタート

通学路清掃で活力も励ましも

 「美しいものを見れば、心まで美しくなる」と、鍵山秀三郎さん(イエローハット創業者)は力説される。

 子供たちが登校する小学校通学路を清掃する動機ともなった言葉だ。

 わが社では、毎週水曜日の午前7時20分、小学校正門前に全員が集合、整列。「気を付け」「おはようございます」の掃除朝礼から開始する。

 ダラダラ始めたのでは子供たちに恥ずかしい。「礼を正す」はすべての基本。掃除はニコニコ、キビキビ、イソイソ進めなければ、価値が半減する。登校する子供たちには大きな声で、正しく「おはようございます」とあいさつ。子供たちからも元気のある、かわいい「おはようごぎいます」。この返礼は、日々の仕事にも新しいエネルギーと活力を与えてくれる。本当に嬉しく、ありがたい。

 10年続けて一般参加者が3名も加わり、勇気百倍。地域内にある口田、口田東、落合、落合東、倉掛、亀崎、真亀の7小学校にまで範囲が広がった。学校周辺の雑草を取り除き、ペットらの糞尿から発する嫌な匂いもいつしか全く消えてしまった。

 子供たちは軽やかな足取りと、元気なあいさつで校門を通る。きっと一時限目の授業も楽しくなるはずだ。

 その証拠だろう。3年目頃から、教室の窓から手を振って私たちを励ます姿が見られるようになった。

 子供たちのいじめや自殺などの悲しいニュースが目立つが、一人でも多くの大人たちが「おはようございます」と声掛けすれば、きっと暗い話題も減少するだろう。

 どんなささやかな活動でも、一人の力だけでは続きにくい。私たち「地域を美しくする会」の実践は、心あるる高齢者の皆さんの熱意、若い社員の奉仕の精神などによって支えられ、今も続けている。「継続は力なり」という言葉も、いささか違う。「継続は新たな力を生む」が、実感とし て正しいように思える。

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連続400週達成の掃除を支えるメンバー

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熱い思いを込めて、記念の一筆

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記念の「寄せ書き」を下深川駅長さんに進呈

ささやかな善行の継続で花開く

 いつの頃からかバス停から、ゴミ箱や灰皿が姿を消した。つまり不要になったのだ。「ゴミを捨てる人」「ゴミを捨てない人」「ゴミを拾う人」と大別できるが、拾わないまでも捨てる人が少なくなった証しだろう。

 18年前は至る所に散乱していた空缶やペットボトルなども今や、滅多に見なくなった。煙草の吸い殻も各バス停にはほとんど捨ててない。心ないドライバーが車から道路に捨てる吸い殻などは後を絶たないが、それもさしたる量ではなく、清掃を始めた頃に比べ、隔世の感さえする。

 特筆すべきは、地域内の100カ所を超えるバス停の大半が、見違えるように美しくなった事実である。

 誰が掃除しているのかは分からない。自分の町を自分の手で美しくしたいと願う心ある人が、至る所で着実に増えているようだ。

 ゴミのない町の光景は、人の心を和やかにする。昨今の殺伐とした世相の荒れ模様は、ささやかな行いである掃除を続けることで、いくらかでも解消されるように思う。

 地域の玄関であるバス停、町の玄関であるJR駅、子供たちの未来につながる道の通学路…。心ある人たちとの出会い・善意に支えられ、いつの日か日本一の美しい町になるよう願いながら、ほうきや雑巾を持ち続けたいと心から誓い合っている。

No.17 ~辛い少年期の恩師と50年後に再会、恩返しの本作り~

No.17 ~辛い少年期の恩師と50年後に再会、恩返しの本作り~back_18_00

テレビドラマを見て感涙やまず

 ここ数年来、テレビは見ないことにしている。視力の衰えもあるが、何ともくだらない番組ばかりで、時間を割くに値しない。それでも文字放送のニュースだけは丹念に見る。

 テレビ放送を忌避した一因には、どことなく思想的背景の漂う筑紫哲也キャスター・久米宏キャスターの、偏見に満ちた報道に嫌気が差したせいもある。自己主張は構わないが、どうせなら確信犯的に報道してくれれば、視聴する側も反論できる。

 テレビ嫌いで通っているが、1月4日夜に放送された島田洋七氏原作のドラマ「佐賀のがばいばあちゃん」は、最初から最後まで見続けた。原作が270万部も売れて前評判も良く、読了。感動していたからだ。

 ドラマそのものの出来は秀逸ではないと思うが、私自身の少年期と重なり合う場面・部分も多く、終戦直後の辛かった時代を思い起こしながら、涙が止まらなかった。

 父は太平洋戦争で戦死。母とは事情があって別れて暮らし、私は8歳で郷里の祖父母に預けられた。昭和20年3月から中学卒業までの多感な7年間、祖父母の元で育てられた。

 洋七君風に表現すれば、私の場合は「がばいじいちゃん」である。顧みれば、想像を絶する苛酷な時代であったが、決して辛くはなかった。

 食べる物や看る物がないのは当たり前。決して貧乏だからではない。つましい暮らしが習慣になっていたからだ。それに貧富と関係なく、集落の人々の暮らしは皆同じだった。

 子供も大人と同様、朝早くから夜遅くまで腹をすかせて働き通した。

60年前を鮮明に思い出し感慨

 ドラマの中で特に涙したのは、母に寄せる恋慕と教師の思いやり…。いつの間にか慣れていったが、参観日に誰も来てくれないのは寂しい。

 今では過疎になって小学校全児童で22名だが、当時は一クラス40名を超えていた。参観に来る保護者も半端ではない。母は参観日も運動会も、ほぼ約束を破った。しかし、事情が分かっているだけに、寂しかったが、恨みに思ったことはない。

 運動会に保護者が来なければ、ドラマと同様に教室で昼食を取る。

 外では、お祭り気分で華美でないがご馳走を、親子だんらん輪になって楽しむ情景。わが家の弁当は下半分が麦飯で、上に白いご飯を薄く垂ねてある。おかずは梅干しとかまぼこ少々、加えて、ゆで卵の輪切り。

 それだけでも、いつもとは違っていて、おいしく嬉しかった。

 ドラマでは先生が急に腹痛を起こしたふりをして、洋七君と弁当を交換するシーンがある。私も同じような経験が度々あった。弁当の交換ではなく、先生は卵焼きや銀シヤリを持ってきて「食べきれんから」と言って、弁当箱に載せてくれた。

 中学校に進んでも、全く状況は変わらない。母は引き続き広島市内で働き、仕送りを続けてもらった。量は多少増えたが、相変わらず麦飯と漬物、それに味噌汁の食事…。

 大半の生徒は中学生になっても、いつも腹をすかせていた。そんなときは集団で教師の家に押し掛ける。豊かでない家計の中で、先生ご夫妻はニコニコしながら、おにぎりをたらふく食べさせてくれた。そのため先生宅は夕食を抜きにされただろうと想像できる。そんな時代だった。

 その恩師は、佐々木敢吾先生。陸軍航空隊出身で気鋭の20代教師。

 当時から半世紀余の歳月を経て再会でき、ご恩返しの機会に恵まれるとは、神ならぬ身の知る由もない。

 洋七氏はお笑いコンビ 「B&B」として華々しくデビュー。漫才ブームにも乗り、一世を風靡していく。

 ところで、彼は昭和25年の生まれだから「佐賀のがばいばあちゃん」の物語は、昭和33年から8年間。当時の時代背景から考証しても、いささか違うように思う。

 それはともかくドラマの放映中、約60年前にタイムスリップ。懐かしくも感慨深い時間を味わえた。

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大仕事を成し遂げて、満面の笑みを浮かべる
恩師の佐々木敢吾先生(現在85歳)

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佐々木敢吾先生著
「ふるさとの伝承」

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島田洋七著
「佐賀のがばいばあちゃん」

「ふるさとの伝承」出版に協力

 さて平成16年6月、分厚い原稿を手にして佐々木先生がわが家を訪問くださったではないか。中学卒業後、たまに同窓会などで出会う程度で無縁に近い間柄になっていた。

 じっくり向き合って話し込んだのは、実に53年ぶり。「佐賀のがばいばあちゃん」の初版を読んでいただけに、洋七氏の少年時代と重ね合わせて、昔話にも花が咲いた。

 恩師は再会時、既に82歳。白髭をたくわえて、古武士を彷彿させる風貌。中学教師を定年退職後の約20年間を、郷土史の研究に打ち込んでおられた。一応の成果があり、本にして後世に残したい– と熱望。

 ぜひ出版は君の手で– と懇請されたのがご来訪の目的。こつこつと資料を集め、現地を踏査し、古老の話などをまとめていったという。

 私は時折、雑誌などに拙文を寄稿しているものの、本格的な本作りなどの経験は乏しく、編集・出版の分野は全く不案内である。突然のお申し出に戸惑ったが、恩師からたってのご依頼だけに、光栄で嬉しくもあり、断る理由も見つからない。

 出版の趣旨・目的も十分理解できむしろ郷里には不可欠の歴史書だ。幸い、編集・出版に精通する畏友も全面協力してくれるという。身の程知らずながらも、お引き受けした。

 少年時代、飢えを凌がせていただいたご恩返しに絶好のチャンスだ。

恩師と畏友の二人三脚で大仕事

 わが故郷は、弥生時代の中期以降相当な文化レベルの生活を営んで– などが、発掘された佐久良遺跡、史料などからも伺い知れる。

 単なる郷土史ではなく歴史書として上梓する方針だけに、あらためて内容の精査、新史実の掘り起こし、歴史的な裏付けなど、恩師と畏友の二人三脚で、気の遠くなりそうな大作業となる。やがて何事にも手を抜かないご両人の熱意と執念で、本書は品格ある史書に仕上がり、立派-- と各方面からも高い評価を得た。

 毛利一族の研究第一人老である広島県立大学の秋山伸隆教授から、絶賛に近い序文を寄稿いただけただけでも、本書の意義と価値が高いことを裏付けている。協力とはいえ、私は単なる走り使いの役割に徹した。

 「ふるさとの伝承」と「佐賀のがばいばあちゃん」は、一見して何の脈絡もないのだが、私にとっては太く結び付く。つましい暮らしと幸せ、ひたむきさなど共通点も数多い。

 恩師の著作からは、二千年に及ぶ歴史を検証しながら、日本人の生き方の原点も数限りなく教えられた。あらためて己の生きぎまを自戒…。

 辛かった少年期に恩師と出会わなかったら、おそらく次代に伝える「ふるさとの伝承」という大切な本作りに、ご縁さえなかったに違いない

No.18 ~若々しい傘寿の先達から意義深い人生を学び取る~

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示唆に富む揮毫に胸が熱くなる

  死生でござる

  賜生でござる

  至誠でござる

           一清

 平成19年3月1日、胃がんを克服して生き永らえた私は「古稀」を迎えさせていただく。敬愛する寺田一清さんから墨跡鮮やかな色紙を記念に贈られた。冒頭の揮毫である。

 教育実践の泰斗で、国民教育に偉大な業績を残された森信三先生(故人)から薫陶を受けた愛弟子の一人として、寺田さんは著名である。

 今年3月に傘寿を迎えられて、なお若々しく健在。執筆や講演活動などで森先生の思想・哲学を広める活動に、生涯を捧げておられる。

 揮毫は奥深い内容で、私ごとき凡人に理解できる由もないが、筆勢から気迫が伝わり、胸も熱くなる。

 死生でござる- かつて勉強会で教わった「生死は表裏一体」「感謝上手で喜び上手、人生最後まで豊かに…。死をも当たり前に受け入れ、納得いく人生を築きたい」という言葉を鮮やかに思い出す。その意か?

 賜生でごぎる- 4年前に一度はあきらめた命だが、幸いにも健康を取り戻した時、天から賜っていると気付かされた。乏しい体験ながら、実感として納得できる。以来、余命は大切に使わせていただいている。

 至誠でござる- 日本人は古来「至誠の人」を理想的人格として尊ぶ。人として、死生 →賜生 →至誠と相関し合うだけに、私も生き方の背骨と受け止め、少しでも心掛けたい。

 寺田さんとは平成8年6月、「広島はがきまつり」という勉強会でご縁がつながった。特別講師として森先生の教えの幾つかを力説され、背筋が伸びるような感動を味わった。

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寺田氏から記念に頂いた色紙

一瞬早過ぎず遅過ぎない出会い

 特に「人間は一生のうちに会うべき人に必ず会える。しかも一瞬早過ぎず、遅過ぎない時に…」の至言を知り、天の啓示を得た思いがした。

 同年は「還暦」前年だったが、後に生涯の師と仰ぐようになる鍵山秀三郎さん(日本を美しくする会創設者)をはじめ、多くの先達と次々にご縁を結び得た不思議な年だった。

 私には「一瞬早過ぎず、遅過ぎない時に」の言葉通り、生き方を根底から変えるような出会いとなった。

 翌9年2月、寺田さんから声を掛けられ、『日本を美しくする会』の一員として、地球の裏側になるブラジルを訪問する機会に恵まれた。

 平成8年に誕生した『ブラジルを美しくする会』の年次大会に出席するため、鍵山団長ら日本代表団42名のうちに加えてもらったのだ。

 今でこそ「トイレ磨きで日本を変えよう」という地味な運動が全国各地に広まり、高い評価を得て、マスコミなども大きく取り上げている。

 だが当初は、何を好んでブラジルくんだりまでトイレ掃除に…と、好奇の目で見られる時代だった。

 鍵山さんの壮大な熱き志に共鳴された寺田さんは「古稀」記念として、誘われた私は「還暦」の思い出として、13日間の行程で旅立った。

 サンパウロ市内の各所でトイレ磨きを終え、リオデジャネイロ、イグアス、サントス、それにアマゾンの奥地まで広大な国を「古稀」と「還暦」のコンビは、戸惑いながらも珍道中を重ねた。楽しい日々だった。

 寺田さんと旅を共有できたのは、幸運としか言いようがない。直接、森先生に師事する機会のなかった私は、以来、寺田さんを通して森教学の素晴らしさを学び取ることになる。

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講演会で森哲学を力説される寺田一清氏

森先生の教学普及に生涯懸ける

 森信三先生を評して偉大な教育者、哲学の巨人とも言われる。だが、必ずしも正鵠を得ていない。ご自身による「自銘の旬」が理解しやすい。

  宗教家にあらず

  はたまた教育者にもあらず

  ただ宿縁に導かれて

  国民教育の友として

  この世の生を終えむ

             信三

 何とも謙虚で奥ゆかしい。しかも強いエネルギーを秘めた言霊も働く。

 森先生の思想と生涯は、神渡良平著「人生二度なし・森信三の世界」(佼正出版社刊)が分かりやすかろう。

 寺田さんは、森先生の学問・思想や実践・行跡の金字塔とも言うべき「修身教授録」復刊や「不尽精典」の編纂、加えて「幻の講話」(全五巻)の出版など、人生の大半を懸けて、世に送り出す偉業を果たされた。

 さらに傘寿を目前にして、森信三講述「新たなる人間の学」(実践人の家刊)を、全世代に贈るために編纂・発行。次いで「森信三・魂の言葉」(PHP研究所刊)を、一度しかない人生を生き抜くための365話にまとめ上梓された。

 最も感銘を受けたのは、A6判・30ページの自費出版「たねまき文庫」の配布だ。森信三師の言葉として「実践いろは訓」「仕事の心得」「真志正望」「立腰のすす」など10数冊を相次ぎ発刊され、総配布数は100万部を超える快挙となった。

 志高い種蒔きが、いつの日にか確かに豊かに芽生え、多くの人の心を潤す時が来るよう願ってやまない。

実践したい「古稀」の約束

 ブラジルから帰国して間もない平成9年6月30日、寺田さんはもう一つの古稀記念として「四国八十八カ所・歩き遍路」に旅立たれた。

 まず一番寺の徳島県・霊山寺に参拝。菅笠、金剛杖を求められ、白装束に身を整えて1400kmの山の霊場巡拝行を歩み出す。同行は、友二人。

 途中で、数度の台風による暴風雨にさらされながらも、高知県、愛媛県を経て、結願所となる八十八番目の香川県・大窪寺まで踏破。延べ39日間をかけて歩き納められた。

 70歳の高齢で一日平均35kmを無事に元気で歩き抜くのは、まさに壮挙で奇跡とも思える。弘法大師に見守られた遍路行といえよう。

 道中の様々な出来事や信仰に寄せる思いは、ご本人著「四国遍路道中記」(不尽叢書刊行会刊)に詳しい。

 ブラジル同伴などのご縁から、四国遍路で得られた数多くの教訓を聴かせてもらううち、古稀を迎えたら妻と共に寺田さんと同じ巡拝道を歩きたい- と強く願うようになった。

 その思いを寺田さんに告げると喜んでくださった。金剛杖は15cm短くなるので長めが良い、足は腫れて大きくなるから靴は3cm大きめが楽など、細やかなアドバイスも項く。

 10年が巡り来るのは早い。古稀を迎えた今年、寺田さんと交わした約束を実践する段階になった。

 私は4年前、がんによる胃の全摘出手術をしたせいか、すっかり筋肉も落ち、体重が20kgも減った。

 それでもあきらめず、日々歩いて身体を鍛えてはいる。ただ、道連れを望む妻の体調が思わしくない。

 途中で引き返す羽目になったとしても、ともかく約束のスタートだけは踏み出したいと心に誓っている

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昨年2月来広された折の
寺田氏(左)と私(右)=JR広島駅

No.19 ~子供らとの嬉しいご縁で人生の幅も広がる~

No.19 ~子供らとの嬉しいご縁で人生の幅も広がる~back_20_00

「出会い」が人生を変える

出逢い

いつどこでだれとだれが
どんな出逢いを
するか
それが大事なんだ
なあ

みつを

そのときの出逢いが

そのときの
出逢いが
その人の人生を
根底から変える
ことがある
よき出逢いを

みつを

 詩人で書家の相田みつをさんは、「私は在家の一仏教信徒に過ぎません。私の書くものの根底はすべて仏法です」と、自己紹介しておられる。

 相田さんの作品は人々に親しまれており、その一つ一つを深く味わい、影響を受けた人は少なくない。

 私は20年も前から相田さんの書かれた本や書を求めていたのに、書庫に眠らせてきた。もったいないことをしたものよ━ と自戒しているが、なぜか近年になって、挨を払いながら取り出し拝読、胸を熱くしている。

 古稀に至って、人との出会い、書との出会い、自然との出会いなどが、己自身の人生を根底から変えている不思議に、ようやく気付いた故か。

 ご縁あって本誌に、《出会いに学ぶ生き方の極意》を連載し始めてから、一層その思いを強くしている。

 生涯の師と仰いでいる鍵山秀三郎さん(日本を美しくする会創設者)が既に40年も実成されてきた(トイレ磨き活動)に感動・共感。各地の『掃除に学ぶ会』に参加する傍ら、地元の学校にも働き掛けていった。

 鍵山さんの著書を持参し、トイレ磨き活動の実践例や子供の教育に及ぼす効果を伝えながら、「ぜひ学校で共にトイレ磨きを…」と、お願いして回った。地元には13校もの小・中学校がある。足繁く通って力説したのだが、実現には至らない。

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相田みつをさんの詩書

子供らの来訪・訴えで現状打破

 熱意が足りないせいもあるだろう。伝え方が稚拙なのかもしれない。学校側にも、それなりに実施出来ない事情があるのだろう。三年も過ぎた頃には、諦めの心境になっていた。

 平成13年1月中旬、広島市立落合小学校の6年生7名が「総合的な学習」の一環として、環境問題に対する企業の取り組みについてインタビューするため当社を訪問した。

 あらかじめ、質問事項は用意していたようだが、建築廃材、地域のゴミ処理、汚れた川、家庭の生ゴミ、タバコの吸い殻のポイ捨て、行政の姿勢など、矢継ぎ早の問い掛け…。

 たじたじとなりながらも、子供たちの熱心さに圧倒され、経営者としての考え方、会社の行動基準・日々の実践を分かりやすく説明した。

 時間が経つに従い、子供と大人の垣根が取り除かれ、両方とも真剣な話し合いに進展する。そうこうするうち本題から少し外れたが、当社の地域活動の一つ「JR無人駅のトイレ磨き」に話題が及んできて、彼らは強い興味と関心を示し始めた。

 「学校のトイレは汚れていて臭いもきつい。自分たちがピカピカにして卒業したい。ぜひトイレ磨きを指導して…」と、目を輝かせながらの訴え。夢ではないのかと耳を疑った。

 予想もしない経過で、困難を極めていた試みがようやく実現する…?

名の願いが卒業生全員に拡大

 実はこれまでも幾つかの学校で、何度かトイレ磨きの動きがあった。だが、その都度、学校の都合やPTAなどの思惑で実現しなかった。

 しかし、この時は子供たちの強い願いを、担任の宮本修教諭らがしっかり受け止めてくださった。幸いにも福本洋雄校長をはじめ他の先生方の強力なバックアップもあって、外野席の雑音を封じ込め得た。

 当初は7名で取り組む予定が、やがてクラス全40名になり、とうとう卒業する全員80余名に広がった。そして、同年3月13日に実施。

 子供たちのトイレ掃除は、それが初経験ではない。全校清掃の時間に当番になれば、マスク、ゴム手袋、長靴の重装備で、水を流しながら棒ずりで擦る程度の作業はしていた。

 ところが、素手素足のままで、さまざまな用具を駆使して、便器の奥底まで磨き上げる模範を見せると、子供たちは唖然とした表情…。

 その戸惑ったような顔々は、今も鮮やかに脳裏に刻み込まれている。

 男子便器の水漉(みずこ)しを外して、長年にわたって黄色くこびりついた尿石まで取り除けば、たちまちトイレ特有の嫌な臭いは消え去ってしまう。

 子供たちは最初、困惑し尻込みしたり、もしかしたら嫌だったろう。しかし、手掛けた便器が輝きを増すにつれて、夢中になって打ち込み始めた。手袋を外し、長靴も脱いだ。

 間もなく、そんな心の動きを、子供たちは驚くほど素直に表現し、感想文集にまとめ、届けてくれた。

 読み進むうちに、あまりにも純真で無垢な子供たちの心・姿を知って、私は感動で涙が止まらなくなる。

 これは、ぜひ印刷して記録に残しておこう。彼らが成長して将来、小学校六年時代の感想文を読んだら、きっと何かを感じ取ってくれるに違いない━と、本作りを思い立った。

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緊張?不安?卒業記念トイレ磨きの開会式

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「卒業記念トイレ磨き」
の感想文集

「卒業記念トイレ磨き」の先駆け

 早速、制作・製本に取り掛かり、B6判・百ページの小冊子として仕上がった。内容はトイレ磨きに参加した全員の感想文、掃除に励む姿を写したグラビア写真、班ごとの記念撮影、教師のコメントなどで構成した。

 鍵山さんは「落合小学校卒業生の皆さんへ」と題して序文を書いてくださった。その中で「6年間にわたって学んだ校舎への感謝を込めて、お世話になったトイレを自分たちの手で磨き上げたお心に頭が下がります。皆さんの行いは、今期6年生になった後輩はもちろんのこど、今年入学んた1年生にとっても、素晴らしい伝統となっていくことを確信します」と、高く評価、称賛された。

 タイトルはずばり『卒業記念トイレ磨き・感想文集』として、初版は5000部だけ発行し、関係者に配った。

 ところが、なんと5000部がわずか1カ月間で全国各地に掃除仲間の手で届けられていくではないか…。

 しかも、この感想文集は思いもしない波紋と効果を巻き起こす。全国の小・中学校に広がる「卒業記念トイレ磨き」の先駆けとなったのだ。

 平成19年3月7日、
落合小で第7回「卒業記念トイレ磨き
が行われた。あの時に新入学した一年生が、先輩たちと同じ道を歩き体験して卒業。鍵山さんの確信通り、同校の新しい伝統として見事に根付いている。

 6年間お世話になったトイレを、ピカピカにして卒業していく子供らの姿を見送りながら、相田さんの詩「出逢い」の重さを再実感している。

 6年前の子供たちとの出会いは、まさに「よき出逢い」であった

No.20 ~トイレ磨きで世代を超えた癒しの交友を育む~

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人に喜んでいただける存在

自分がしてもらって嬉しいことを
他人にもしてあげる。
そんな嬉しい連鎖が始まると
楽しくなる。

人間は世の中のお役に立つために
生まれてきている。
同じことなら
苦しいことや辛いことは
自分まで…としたい。
暗い連鎖は食い止めたい。

反対に楽しいこと、嬉しいことは
一人でも多く広げたい。
人に喜んでいただくことは
考えるだけで嬉しいものだ。

他人の喜ぶ姿が
自分の喜びに変わったら
一人前である。
人を喜ばせることのできる
人間でありたい。

はがき道友の木南一志さん(兵庫県在住)が、このほど 『明日へ』と題して2冊目の詩集を発刊された。

木南さんは運送業を営む経営者で、詩人ではないのだが、日々、心に刻んだ想いを書き綴っているという。

最後の一節、「人を喜ばせる人間でありたい」の短い言葉に、強く心惹かれて、冒頭で紹介した。

その理由の一つは日頃から、自分もそうありたいと願いながらも、果たせないでいるせいかもしれない。

もう一つの理由は、詩に表現された通りの方との出会いを、咄嗟に懐かしく思い浮かべたから…。その方とは、丸山正信さん(横浜市在住)。

やはり沖縄トイレ掃除で出会う

丸山さんは、横浜エリアを拠点として全国ネットで東洋医療器具などを販売する「カナケン」の創業者である。現在は後継者に経営を任せ、会長職として下支えされている。

初めての出会いは、平成8年2月に開かれた「沖縄掃除に学ぶ会」。

しかし、その時は言葉も交わしていないし、後から参加者名簿で追認した程度だ。既に本稿で幾度も紹介しているが、還暦以降のわが人生を大きく変えた人たちとの交流は、奇しくもすべて平成8年のご縁から始まる。不思議な思いに包まれる。

丸山さんを「人を喜ばせる人間」として実感したのは、翌年2月に催された第2回「ブラジルを美しくする会」に同行させてもらった時だ。

参加したメンバーは、鍵山秀三郎さん(日本を美しくする会創設者)をはじめ42名。当時のサンパウロは治安が極度に悪く、活動の展開も現地日系人グループのアテンドを受けたが、不安でいっぱいだった。

海外旅行の経験が少ない身にとっては、夜も落ち着いて眠れないくらい。スケジュールの後半でアマゾンに辿り看いた頃は、高温と食事の変化で著しく体調を崩していた。

そんな際、丸山さんの温顔と優しい心遣いに触れ、どれだけ助けられたことか。どちらかというと寡黙。言葉は少ないけれど、その一言一言が心に残って、元気を与えられた。

ご本人も体調を崩されていたのに、ご自分の事はさて置いて、面倒を見てもらった。表向きは快適を装っていても、実際の調子は‥最悪だった。

私が無事に帰国できたのは、やはり丸山さん抜きには考えられない。

実質的には、ブラジル訪問の時が初対面のようなもの。だが、何が気に入られたのか分からないながら、帰国後も交流は一層深くなっていく。

喜んでくださる誕生日カード

ここ十数年来、お客様や有縁の方々に誕生日カードを届けている。

厚手の和紙の中央に、朱墨で大きく「寿」と書く。重ねて仮名文字で「おたんじょうび おめでとうございます」と記し、メッセージを添えて、年月日と宛名を入れる。今年は、「周りの人の喜びが、自分の幸せ」。

丸山さんの生まれは、昭和6年6月6日。実に覚えやすい。ご縁がつながって以来、郵送し続けている。

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今年の誕生カード(「寿」の文字は朱墨)

 

だが、昨年は「来年も誕生日カードがもらえるよう頑張る」と、気掛かりな返事。「来年と言わず20年は書かせてください」とお願いした。

実は、丸山さんは心臓を患い、ペースメーカーを使っておられる。

推測するに、使用期限がギリギリで不安定な体調だったようだ。幸いにして、入れ替え手術が成功。現在は普通の生活が可能になっている。

下手な筆文字ではあるが、今年も丸山さんにお届けできるのが嬉しい。

新宿・歌舞伎町のドブ掃除

広島県警本部長を務めておられた竹花豊さんが平成15年4月、石原慎太郎・東京都知事に請われて、治安担当の副知事に就任された。

当時の新宿・歌舞伎町の治安は極めて悪化し、鍵山さんらも心を痛めておられた。詳しい経緯は承知していないが、竹花副知事就任と期を一にして同町の清掃活動が始まった。

既に4年を超えて継続されているが、その地味で着実な活動を陰で支えておられる一人が丸山さんだ。

毎月第3木曜日に「新宿を美しくする会」が開かれている。今では新宿地区自治会のメンバーも加わり、全国各地からの参加有志も後を絶たない。犯罪は大幅に減ったという。

丸山さんのお声掛かりもあり、私も不定期ながら参加している。新入社員の入社前研修にも「新宿掃除」をカリキュラムに組み込んでいる。

70年も生きて来ると、時には泣きたいとき、恥も外聞もなく誰かに槌(すが)り付きたいときがある。実はそんな折に新宿・歌舞伎町までドブ掃除に赴く。そこに行けば、確実に丸山さんとひとときを共に過ごせる。

何も愚痴を口にするわけではないが、丸山さんの温顔に接し、黙々と二人でドブ掃除をしていると、いつの間にか、溜まっていた不平・不満までがすべて消えるから不思議だ。

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中田宏・横浜市長が来園記念に揮毒した
「先憂後楽」をバックに(左側が丸山氏)

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「竹の子学園」訪問の際、
記念植樹される丸山氏。

 

弱いわが心の支えとなるご緑

今や全国で100を超える「○○掃除に学ぶ会」が活躍しているが、丸山さんが代表世話人を務める「神奈川掃除に学ぶ会・年次大会」は、平成8年以来、私が皆勤する唯一の会。

平成15年2月、私が胃がんの全摘出手術をした際も、横浜グループの方々と共に見舞ってくださった。

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社員歓迎会で楽しそうな丸山氏(中央)

私の故郷で実践している親子農業体験塾「志路・竹の子学園」には、2度も現地を訪問されて、激励いただいた。今年3月には私の生地で、先祖の墓にも合掌してくださった。

広島を訪れる際は、我が社に必ず立ち寄り、社員を激励し、地域清掃やJR駅清掃にも汗を流される。

人心・倫理・経済・教育などが荒廃し、日本の将来に暗い陰を落とす昨今、丸山さんの「人の喜びをわが喜びとする」生き方から、学びは尽きない。心も豊かになる。

トイレ磨きの出会いから交流し続ける丸山さんの存在は、ともすれば萎えそうになる弱いわが心の支えと言える。東に足を向けて眠れない。

No.21 ~傘寿を超えても向上心燃やす畏友に啓発される~

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喫煙が成人病を誘発する

日本で発売されている煙草のパッケージには以前から、喫煙が健康に悪影響を及ぼす- と警告している。

「喫煙は、あなたにとって肺ガンの原因の一つとなります。疫学的な推計によれば、喫煙者は肺ガンにより死亡する危険性が非喫煙者に比べて約2倍から4倍高くなり…」と。

現在、日本人の死亡の原因は、第一位がガンで、第二位が心疾患、第三位が脳血管疾患と続く。いずれも喫煙の習慣と大きく関わっている。

厚生労働省は「がん対策推進基本計画」をまとめたのだが、「喫煙率半減」という数値目標は見送られた。

年間2兆2千億円に達する煙草消費税の減少を恐れ、財務省が難色を示したらしい。日本たばこ産業(JT)も「個人の嗜好への国家権力の介入だ」と、強く反発したようだ。

だが、健康を損なうと明示している商品を販売する姿勢はいかがなものか。現実として喫煙者は、成人の40%にまで減ったというが、愛煙家にとって禁煙は苦痛で、難儀だ。

私も意志が弱く、悪いと知りつつも、禁煙しては短期間で再び喫煙する愚を繰り返している。情けない。

飲酒ゼロの私が胃ガンに侵され、ヘビースモーカーでも肺ガンに無縁な人もいる。食生活に細心の注意を払っても、大腸ガンで苦しむ実例はしばしば…。皮肉な結果も数多い。

医学的に喫煙とガンの因果関係は明らか。だが必ずしもそうならないから、禁煙できない言い訳も生じ、病に見舞われる率が高い。いっそのこと煙草のない国になれば喫煙できず、三大成人病は激減するだろう。

ガンとトイレ磨きで友情深まる

あれこれ喫煙できない屁理屈を並べる中でも、健康保持のため禁煙に挑戦し、成功した決意の固い人は幾多も…。禁煙腰砕けの意志薄弱者から見れば、まばゆい人たちである。

掃除畏友の永田真一さん(神戸市在住)は、そのお一人。ところが、禁煙しても病魔に侵された。平成15年7月25日、大腸ガンと診断されて即手術…。3カ月に及ぶ長期入院で、4年を経た今も2カ月に1回の精密検査を受けておられる。

同年1月に私が胃ガンで全摘出手術し入院した時も、わざわざ神戸から見舞ってくださった。「ガンの特効薬は笑いだよ」と、呵呵大笑して激励いただいたが、その半年後、逆にご本人が見舞われる立場になるとは…。神ならぬ身の知る由もない。

永田さんは、大正12年1月生まれの84歳。今なお現役で、永田薬品産業㈱会長の立場で指揮を執ってておられる。昭和21年に創設され、業容は化学工業薬品およびケミカルの輸入商社として盛況である。昨年、創業60周年を祝われた。

平成7年4月、兵庫県中小企業家同友会の定期総会で記念講演をさせていただいたが、永田さんは同会の代表理事の要職にあった。講演会後に催された交流会で、親しく対話し名刺交換したのが最初の出会い。
その翌年に鍵山秀三郎さん(イエローハット創業者)とご縁がつながった私は、掃除道にのめり込む。14歳も離れた年齢差ながら、永田さんもトイレ磨き活動に引き込んだ。

平成9年5月に大阪市内で開かれた「大阪掃除に学ぶ会・全国大会」に初参加され、以後も滋賀、岐阜、奈良など各県の活動に顔を見せて、さらに親交を深める間柄になった。

特にガンを患ってからは、死線を乗り越えた人間同士として、トイレ磨きのみならず、はがき道や経営の道にまで交流は広がり濃くなった。

「デイリーメッセージ」も効用

平成9年10月に内堀一夫さん(群馬県在住・元小学校教師)と出会ったのが契機で、全社員あてに約600字のメッセージを毎日届けている。

胃ガン手術の前後も休まず書き続け、今年6月末で3863号を数える。文字数は累計23万字を超えて、はがき道と共に、生きてきた足跡の証で、自分史にもなっている。

推敲や校正前の膚理の粗い駄文だが、永田さんから所望されて一週聞分をまとめ、日曜日の早朝、FAXで送り続けている。その都度、読後感をはがきで、時に長文のリポートにまとめて、ご意見を項いている。

輸入商社だけに、金融は企業の血液として重要な業務だ。大手銀行をはじめ9行の金融機関と今、密接に連携されている。永田さんにとって週一回の支店長訪問も欠かせない。

金融機関やお得意先回りには、何らかの手土産が訪問時に必要だ。世の中の巡り合わせは面白い。実は拙い「デイリーメッセージ」が役立っているようだ。金融機関などでは支店長が目を通してチェックし、朝礼の話材などに活用しているらしい。

執筆者としては面はゆいが、時には催促も来るとかで、光栄の至りである。零細企業主の小さなつぶやきが、金融機関や大手商社などの手土産になるとは…。愉快ながらも、もはや手が抜けなくなってしまった。

永田さんより14歳も若い私としては、古希を超えたからといって、まだまだ安閑としてはいられない。

back_22_01日浦中の生徒と「トイレ磨き、頑張るゾー」と
意気軒高な永田さん(左から3人目))

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「掃除は楽しいよ」と笑顔いっぱい(日浦中で)

 

80歳を超えてなお衰えぬ向上心

14年後、永田さんと同じように熱い向上心を持ち続け、学び続ける自信は全くない。それだけに大いなる指標として、励みの源泉である。

平成17年7月の第一週末、永田さんは、わが社の研修プログラムに自発的に参加された。公開してないが、要望があれば受け入れている。

会社の活動に合わせた二泊三日の研修内容だが、傍目でも実に厳しい。

金曜日は広島市立日浦中学校の「トイレ磨き授業」に参加。土曜日は早朝五時から「JR駅トイレ磨き」に1時間、続いてバス停などの地域清掃に1時間汗を流す。その後は終日、現場巡回。最後の日曜日は親子農業体験塾〈志路・竹の子学園)で塾生と一緒に、自然体験・農業体験に参加。やっと午後3時に解放されるハードなスケジユール。

私たちは毎週の活動で慣れているから平気だが、実は濃密な研修に20歳代の若者でさえ顎を出すほど。

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わが社研修の合間にフレッシュな若手社員と
談笑する永田さん(右端)
〈竹の子学園〉で塾生にあいさつ。
「かわいい皆さんに会えて、嬉しい」

 

体力が持つかどうか心配したが、永田さんは見事に全カリキュラムを手抜きなくこなされた。驚き入った行動力・精神力を日のあたりにし、あらためて畏敬の念を深めた次第。

一般論だが、高齢者が自分の楽しみのために余生を過ごすのは当然。とはいえ、健康長寿のためにも積極的な社会参加は欠かせないだろう。

好奇心旺盛で学び好き。お洒落にも気を使い、新しい友の輪を広げる。社会活動に前向きに参加し、世のため人のため役立つ。それもまた意義・価値ある人生だ。「余生を過ごす」ではなく、「新しい人生に挑戦」という意気込みで日々を送りたい。

それを日常生活で着実に実践し続けている永田さんは、仰ぎ見る存在であり、私の今後にも大切なお人である。負けてはおれない思いだ

No.22 ~ムリ・ムダ・ムラのない金融取引で肝胆相照らす間柄~

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金融機関は再編成で戦国時代入り

広島県人にとって愉快な話題ではないが、もみじ銀行が山口銀行の傘下に入った。呉相互銀行はせとうち銀行に、広島相互銀行は広島総合銀行に改称…。さらに広島総合銀行とせとうち銀行が統合し、もみじ銀行に社名変更して歩んでいた。だが、山銀にのみ込まれてしまった。

メガバンクも数行ずつ統合され、元の銀行名を思い出すのが難しいほど。金融機関はいずこも再編成されて、肥大化していった。いずれにせよ零細企業にとっては雲の上の話。さして影響が及ぶわけではない。

従来、県や地域ごとにすみ分け、無風状態に近かった中国地方の金融機関が、日銀のゼロ金利解除に伴い激しく競争する事態に転じた。これまで中国地方のトップに君臨していた広島銀行は、遂に山口銀府グループに預金残高、貸出金残高で後塵を拝し、総合力で2位に転落した。

ただし、広島市場を見ると、貸出金シェア35%で広銀がトップを堅守し、山銀グループは30%前後で健闘している。広銀は地銀64行のうち62番目に短期プライムレートを引き上げ、山銀は据え置いている (平成18年12月現在)。

地域別に加え、業態別でもすみ分けてきた金融業界だが、少子高齢化などから、同一市場の顧客を奪い合う構図も鮮明になってきた。

バブル崩壊による不良債権の処理で、庶民の預金金利を犠牲にして、血税が惜しみなく注ぎ込まれた各金融機関。ほぼ一段落した今、どこが生き残り、勝ち残るのか? 外野席から観覧する側にも興味は尽きない。

明快でシンプルな経営方針に期待

今年3月で60カ月連続と「いざなぎ景気」を超える記録を更新し、戦後最長の好景気といわれるが、零細企業にその実感はない。逆に経営環境の厳しさは増し、相次いで歴史ある企業が消えている。経営者の資質や売上減に原因もあろうが、雨で傘が欲しいときに差し掛けてくれない金融機関の体質も大問題である。

半面、晴天で傘など要らないときには貸したがる。この金融機関の基本姿勢は、昔も今も変わらない。

格好をつけていても、金融機関はもともと金貸し業である。困っている企業に資金を回さないのなら、存在価値が問われるはずではないか。

6月15日に、広島市信用組合の第55期通常総代会に出席した。

冒頭の山本明弘理事長のあいさつは、極めて明快でシンプルだった。従来、山本さんは声が大きく、相対して話していても耳鳴りするほど。

それだけに迫力もあり、元気を頂ける。私は最前列に座って、理事長のあいさつ内容を懸命にメモした。

どこかの知事のように原稿を棒読みするのではない。まさにトップによる生の経営理念の披歴である。

印象に残ったのは、地域における信用組合の存在意義を強調し、在るべき姿を追求するという基本姿勢。具体的には本来業務に徹する経営を貫き、資金の運用で収益を求めないという明確な方針である。

メガバンクや地銀の真似事はしない。他行が訪れない所にも足を運んで「金貸し業」に徹するという。

また株式や投資信託は手放す。相場の上げ下げで業績を左右しかねない商品には手を出さない- と宣誓された。実に勇気ある発言だと思う。

むやみに貸し出すわけもなかろうが、少なくとも弱者の声に耳を傾けていただけそうだ。小雨程度なら傘を差し掛けてもらえそうな期待もあり、随分と敷居が低く感じられた。

40年を超える地道なお付き合い

広島でプロパンガスの小売を創業したのが昭和40年。ある人の紹介で数年後、広島市信用組合から融資してもらった。実は田舎から出たばかりで、銀行取引の何たるかも知らないため、「取引のない相手には金を貸せない」と断られ続けていた。それだけに有り難く、必要資金の融資直後から当座取引がスタート。

その時のご恩を、忘れたことはない。増改築業の今もメーンバンクとして、40年を超える取引が続く。

山本さんが市信用組合に入組されたのは昭和43年だが、その年の内には早くも初めて出会っている。

今でこそ筋肉質で引き締まった体型、精悍そのものだが、当時は細身で背の高い紅顔の美音年だった。

若くして支店長に昇進され、やがてトップに上り詰められたが、折り目正しい礼儀作法と奥床しい謙虚な態度は、当初から全く変わらない。

何が気に入ってもらえたのか、幸い親しくお付き合いくださるものの、不思議にも飲食を共にしたり、ゴルフに興じたことは一度もない。

しかもコーヒー一杯ご馳走になっていない。どちらかの事務所・職場以外では会って話した記憶もない。

通常では考えにくい付き合い方だが、なぜか肝胆相照らす間柄で、今日まで続く。感謝の念でいっぱいだ。

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当社の新社長披露パーティーで
主賓として激励くださった広島市信用組合の山本明弘理事長

back_23_02「ビジネス界・6月号」表紙 back_23_03「ビジネス界・5月号」表紙

 

不思議にもご緑は今なお不変

平成16年1月、病を得た私は第一線からの引退を決意し、ささやかな新社長披露パーティーを催した。

その際、山本さんは快く主賓を引「ビジネス界・6月号」の表紙き受けてくださり、大いに激励いただいた。零細企業側にとっては破格のご厚意であり、招待客の皆さんは一様に驚かれ、面目を施した。

今年になって、さらに不思議が起きた。地元の月刊誌『ビジネス界』の表紙写真に、二人が相次いで登場したのだ。5月号の表紙を山本さんの精悍な姿が飾る。すぐにはがきを書いた。「かっこいいナイスガイ」と…。折り返して「ありがとう」と電話が入って、感激した。

だが何と、光栄にも同誌6月号の表紙写真は、私に指名がかかり、大いに面食らう。山本さんは金融機関のトップだから、顔が書店に並んでも何ら遜色はない。しかし、私は零細企業の一経営者にすぎない立場。

とても、そんな役柄ではないが、またとない「千載一遇」の奇縁だけに、厚かましくも深く受諾した。

「還暦」の山本さんとの年齢差は9歳。アップの写真を比べ「古希」との違いは歴然。だが、しわの数こそ隠せないけど、髪の色なら私が若い… と、密かに優越感に浸っている。

企業にとって、資金は血液と同じである。何かの事情で枯渇したら、事業はたちまち行き詰まる。安全弁として取引銀行を複数にするのが賢明… と、強く友人は勧めてくれる。

しかし、零細企業は、そんな術策を使ってはならないと思う。日本の夫婦のように、金融取引は一夫一妻制に限るべきだろう。無理をしなければ、決して困ることはない。

顧みても、親しいお付き合いに甘えて、身分不相応で無駄な融資をお願いしたことなどは一度さえない。

今後とも、後継者たちを含め、真面目な姿勢で本来業務に徹して打ち込めば、あわてて傘を差し掛けてもらう事態にはならないと確信する。

お互い現役を退いたら、街角の小さな喫茶店でコーヒーを飲みながら、大声で人生を語り合いたいと願っている。果たして実現するだろうか。

No.23 ~はがき道に目覚め、「はがき」で豊かな交友と幸運彩る~

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「はがきの詩」に秘めた不思議

上掲した「はがきの詩」は、「複写はがき」セットの裏表紙に印刷されている。「はがき道」を創始された坂田道信さん(広島在住)のご自筆で、目にも優しい淡いグリーン色。

平仮名を多用した詩は、一見すると読みやすい。だが、はがきに縁のない人には、全く理解できなかろう。

人生の大半を費やして「はがき道」を求め続け深めておられる坂田さんに共鳴して、数年間または数千通もはがきを書く人でも難解かと思う。

たかが一通のはがきだが、それだけ奥行きがあり、味わいも深いのだ。

中には、はがきの道を歩くプロセスで、生き方を根底から変えて、新たな人生を歩む人も少なくない。

私も還暦を過ぎて人生が開けた一人だ。平成8年6月、坂田さんと広島の会合でご縁を得て、「はがきを書き続けたら人生が良くなるよ」と教えられた。以来11年間、書かせていただく日々…。今年8月で発信総数が約4万通に達し、驚いている。

本来なら還暦ともなれば交友関係も細くなり、寂しい余生を過ごすはずだろう。ところが、古希を過ぎた今もなお、日本だけでなく海外にまでネットワークが広がりつつある。

「はがき」で人生も味わい深く

平成9年10月、畏友・頼経健治さん(東京在住)が主宰される《武蔵嵐山志帥塾》に出席した。同塾は作家の神渡良平さんを精神的支柱に仰ぎ、心の修養をめざす勉強会。年1回開かれ、全国から300名余の参加者が一泊二日で学ぶ。研修内容も格調高く、新しい縁を得る良い機会だ。

講師のお一人に、当時は住友生命の関連会社「スミセイリース」社長の金平敬之助さんがおられた。

感銘深い講演だったので終了後、金平さんを囲む人たちの輪を押し退けて、厚かましくも名刺の交換を申し出た。快く応じてくださった。

講演の中で、巨人軍監督時代の長島茂雄さんに話が及んだ。管理者としての能力に疑問を持ちながらも、実に思いやりに満ちた心温まる内容で、胸を打たれた。「長島さんは同世代にとって、太陽を超える存在…」と締めくくられて、また大感動!

熱狂的なカープファンの多い広島にあって、やや肩身の狭い思いをしていた私は、「狂」の字が幾つも重なるほどの長島ファンを自負する。友人に揶揄されながらも、宮崎キャンプまで追っ掛け。望みがかなって握手、サイン、記念撮影に成功した時の感激は、今も鮮やかに覚えている。

それ故、金平さんご自身も熱心な長島ファンと知って大好きになる。何かとご縁を深めたいと切望した。

しかし、知名士とのお付き合いは簡単ではない。念願してもすぐに実るとは思えなかったが、取りあえず、お礼のはがきを書き送ってみた。

有り難いことに、坂田さんのご託宣通り。はがきは、予想をはるかに超えて、幸せを私に運んでくれた。

強く願えば、必ず通じる

待ち望んだはがき第1号が、同年12月29日付で元旦に届いた。

正直言って、無視されるかも…と、期待していなかっただけに、数多くの年賀状に交ざる金平さんからのはがきを見つけた際は、天にも昇るほどの喜びを感じた。「やった!」

地位や立場に関係なく、強く願えば大抵のことは実現すると痛感した。

平成13年に長島さんが巨人軍監督を引退。その時点まで続いたはがきの往来は、長島さんをめぐる話題で満載…。優に一冊の本になろう。

金平さんは大企業のトップでありながら、エッセイストとしても著名であった。平成3年に東洋経済新報社から発刊の『ことばのご馳走』はシリーズ化されて、現在もなお超ロングセラーを保持している。

これまでに、出版された金平さんの随筆集は30点を超え、読者から「心のビタミン剤」として好評だ。

文章は、どれも簡明かつ平易で洗練の極み。はがきと同様に、無駄を削り取った表現の滋味は、読む人の心に印象深く吸い込まれていく。

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こぼれんばかりの笑顔を見せる
心優しい金平さん

金平さんから頂いた
待望のはがき第1号
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700通を超えた兼平さんのはがきファイル

back_24_05金平敬之助さん著
『一枚のはがき』
入院中に届いた
励ましの「一日一信」
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「一枚のはがき」に大感激!

いささか面ばゆいけれども、「二百六十一枚」と題した金平さんご自作の一文を紹介してみたい。

木原伸雄さんは
広島にいる巨人ファンだ。
平成九年に東京で一度お会いした。
その後三年八カ月ぶりに再会した。
二時間ほど雑談した。
お会いするのは二回目だが、
旧知の友人のように話がはずんだ。
お互いに
巨人ファンということもある。
でも「二回目で旧知の間柄」には
秘密がある。
はがきだ。
二百六十一枚。
これは三年八カ月の間に
私が出したはがきの枚数。
二百七十数枚。
こちらは木原さんが
私にくださったはがきの数だ。

はがきがつくってくれた
ありがたい縁といえるだろう。

(金平敬之助著『一枚のはがき』=2002年11月・PHP研究所発行=から抜粋)

このご縁物語には後日談がある。

『一枚のはがき』が発行された翌2003年1月30日、私は胃がんの全摘出手術を受けた。直後に思いがけなくも金平さんから、お見舞いはがきが、舞い込んだではないか。

<驚きました。でも心配していません。神様が木原さんを助けない筈はありませんし、近代医学の力を信じるからです。これからもはがきを五百枚、千枚と続けましょう>

配慮あるはがき一枚に、どれだけ励まされ元気をもらったことか…。

五百枚、千枚と続けるためには、ともかく生き抜かねばならない。

金平さんからは、欠かさず激励のはがきが「一日一信」として約3週間、退院する日まで病床に届く。内容の大半は巨人軍のニュース・情報に加えて、大リーグに移籍した松井秀喜選手の活躍ぶりで占められた。

大いに勇気付けられたはがき千枚にはまだ及ばない。だが、幸いにして金平さん宛てに書き届けたはがきは、既に731枚目を数える。

千枚に到達したら、ぜひ三回目の再会をお願いしたいと念じている。

No.24 ~志高く識見豊かなマスコミ人の熱意と使命感に共鳴~

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定評の新春100人リレー座談会

全国でも類例のない壮大なイベントが、広島の活性化を願って13年間も続き、定着している。月刊経済誌『ビジネス界』新年号に掲載される特別座談会。広島県知事、広島商工会議所会頭をはじめ県内の政財界や教育・文化などの分野から、知名士ら100人が毎回参集する伝統行事だ。

座談会なら数名か、多くて10名程度でないとうまくまとまらない。だが、この新春企画は地元代表100名もが入れ代わり立ち代わり登場するリレー方式を採る。まさに奇想天外。常識的に考えると無謀に思える。

ところが、「使命感や熱意が大きく強ければ大抵のことは叶う」と、同誌主幹の弥山政之<みやままさゆき>さん(66歳)が企画立案され、見事に実証された。

地元経済誌といえば、地域経済の活性化と豊かな生活づくりに貢献しなければ、存在価値は無に等しい。

企画のタイトルは「新春100人リレー大座談会」、統一テーマは表現こそ多少変わるが「広島都市圏の活性化への提言」に絞っている。

座談会は午前7時から開始し、午後10時に終了する延べ15時間にも及ぶ超ロングラン。有名ホテルの会場に20名前後がテーブルを囲み、意見を述べ合い、やがて出席者はリレー式に交代する。発言の内容は様々だから、まとめ役は半端では務まらない。そこは卓越したコーディネー夕ーである日隈健壬<ひぐまたけよし>さん(広島修道大学教授)の活躍が大きい。

空前絶後ともいえるビッグな企画をここまで継続し、定評を得るには、主宰する弥山さんの高い志・識見・信念と併せ、1981年創刊の『ビジネス界』の信用と実績が不可欠だ。

座談会招請にびっくり仰天

100人にも達する「新春大座談会」と冠が付けば、出席できる立場の顔ぶれはおおよそ限定されよう。政界ならば知事、市長、議長級、財界ならば地元大企業のトップ、幹部級に金融機関の頭取級、加えて学識経験者や文化人らをイメージするはずだ。

だから、1997年10月に弥山さんから、座談会に招請したい-と電話をもらった時は、腰を抜かした。

私は一零細企業の経営者にすぎない。既に座談会の概要や、きら星のごときメンバー陣を知っていたので、畏れ多くて即答できなかった。

弥山さんとの出会いは、畏友だった砂原克行さん(故人・当時広島県議)のご紹介による。詳細な経緯は記憶も定かでないが、当時まだ数少なかった住宅リフォーム業についての取材が機縁のように思う。既に10数年もお付き合いする間柄。それ故に、声を掛けてくださったのか?

好奇心はあれどもお歴々の間に挟まり、提言する話題も持ち合わせていない。まして度胸もなかった。従って固辞し続けたが、やむなく背中を押されるように出席する羽目に…。

新春企画は1993年から開催、私の初参加は第5回の97年。奇しくも記念すべき還暦の年だけに、新人生を飾る大プレゼントになった。

座談会当日、待合室で緊張の極限で待っていた。「どうぞ」と会場に案内され、冷や汗がどっと出た。席の右隣が大下龍介さん(福屋社長)、左隣が森本弘道さん(当時広島総合銀行頭取)。見回すとテレビや新聞でお馴染みの顔、顔、顔ばかり…。

司会の日限さんに促され、口ごもりながら、わが社が総ぐるみで取り組んでいる地域清掃や学校のトイレ磨き活動の意義について話した。

地味な筋立てだったが、雲の上の人らには珍しかったのか、意外にも関心を持たれたようだ。当時の広総銀(現・もみじ銀行)が盛んに取り組んでいた「花いっぱい運動」を森本さんが紹介され、地域活動の大切さを解説くださった。その時の救われた思いは、今も鮮やかに覚えている。

以来、厚かましくも欠かさず出席させていただき、常連顔をして気ままに勝手な論理を振り回している。

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定評ある恒例の大イベント「2006年新春100人リレー大座談会」で
記念撮影(2005年11月8日開催)
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見事な司会で活躍する
日隈健任・広島修道大学教授

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㈱マルコシの新社長披露
パーティで、祝辞を述べる
弥山政之・「ビジネス界」
主幹(2004年1月)
back_25_04小村和年・呉市長(右)の発言に
盛り上がる座談会。左は私

 

本誌に連載執筆のチャンス頂く

もはや「好意」としか受け止めようもないが、座談会出席によって、弥山さんと一層ご縁が深まり、『ビジネス界』に駄文を本格連載する機会まで下さった。自己主張の強い持論の展開ながら、今もなお、お呼びが掛かるのは弥山さんの心の広さであり、日陰にもスポットを当てようという独特のご配慮と思っている。

連載執筆を時系列に並べると–。96年7月号から「掃除に学ぶ」を24カ月。1年休んで2001年1月号から「木原伸雄のちょっと・とーく 世相薮呪み」を24カ月。続いて「六十五歳からの挑戦・親子農業体験塾物語」を1年間。現在も、この「出会いに学ぶ生き方の極意」を36回の予定で、05年8月から拙文ながらも寄稿し続けている。

古希を迎えた私の生涯テーマは、
①子供の教育 ②過疎地の活性化 ③高齢者の生きがい-
の三つである。

都市部の経済的課題だけでなく、中山間地域における限界集落の問題に政財界が着目し、助言いただけたのも「100人座談会」がもたらした幸運だと、感謝の念でいっぱい。

『ビジネス界』が経済誌の存在意義を社会に問い掛けている公益企業「中国電力」のデータ改ざん事件の追及は、既に8ヵ月(10月号現在)も続き、鋭く警鐘を鳴らしてきた。

正義を貫く編集姿勢に共感!

一経済誌が損得だけ考えれば、ここまで徹底した糾弾は出来ない。あらためて正義を貫く編集姿勢に強い共感を覚える。同時に、弥山さんの生きざまから多く学びを得ている。

05年、呉市の小村和年<こむらかずとし>さんが、現職市長の4選を阻止し、市政を刷新するため呉市長選に再挑戦を決意された。世評は現職が断然有利…。

小村さんと私は中田宏<なかだひろし>・横浜市長とのご縁から、肝胆相照らす仲間でもあった。首長の多選弊害は、至る所で表面化しているのが実態だ。

ささやかなご縁を頼って私は、弥山さんに『ビジネス界』としての取材をお願いした。4選を目指す現職市長と弥山さんの交流は10年を超えており、難題であったに違いない。

しかし、一瞬考えた後、即座に「政治に新風は必要だ」と快諾され、何と7ページにもわたってインタビュー記事を掲載されたではないか。

当然ながら現市長側から猛烈な抗議を受け、訴訟寸前まで進んだと聞く。選挙は水物。万一を考えたら、長い方に巻かれるはず…。大いなる決断と眼力に尊敬の念を更に深めた。

激戦を制して小村さんが新市長に当選した直後、さっそうと「100人座談会」に登場された。ほっと胸を撫で下ろした瞬間でもあった。弥山さんも同じ思いだったであろう。

進行役の日隈さんも、座談会のお開きのあいさつの中で「一年間で最も明るく大きい広島の話題は、小村さんの新市長初当選である。ご活躍を期待している」と結ばれた。

弥山さんからは常に「正義とは?使命とは?」と問題提起され、ともすれば萎えそうな古希の人生に活を入れてもらっている。有り難い!

まえがき

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まえがき

平成14年12月10日、定期健康診断を安佐市民病院で受けた。これまでいくらか注意を受ける場面があったものの、大過なくパスしてきた。

ところが、この時期はいつもと様子が違った。各項目の検査が流れるように進み、レントゲン室でバリュームを飲んだとき、担当医から「もう一度」と声が掛った。

翌日、病院から携帯に電話が入り、精密検査を受けるようにと指示。

検診の結果、胃がんと診断され、目の前が真っ暗になった。即刻、入院し、手術を受けるように告げられた。

当初は胃の3分の2切除で済むはずだったが年末年始の約束事を果たしているうちに、50日遅れの入院。再検査の結果、全摘出手術を必要とするまでに進行していた。悔やんでも始まらない。平成15年1月30日、手術を受けた。

がんのレベルは「ステージ3-A」で、5年後生存率が36%と主治医のご託宣。胃と膵臓のすべてと、リンパ管の一部を切除。妻は「大丈夫、必ず完治する」と励ましてくれたが、内心では諦めていた。だが、生き続けたいと強く願ってもいた。

入院中に発刊した「世相・藪睨み」(A5晩56ページ)に続き、月刊経済誌『ビジネス界』主幹・弥山政之さんのご好意で「六十五歳からの挑戦・親子農業体験塾≪竹の子学園≫物語」を1年間連載、さらに「出会いに学ぶ生き方の極意」を2年間連載した。

平成20年1月30日、最終検査に合格し、生還を確認できた。定期健診で「異常なし」と告げられると安堵し、同時に翌日から癌細胞の転移と死への恐怖が襲う。その繰り返しの5年間は長かった。

やや大げさだか、生還記念として「出会いに学ぶ生き方の極意」の発刊を弥山氏に懇請したところ、快く引き受けてくださった。

本書の発刊にあたり、わが生涯の師と仰ぐ鍵山秀三郎師から、心温まる「巻頭言」をプレゼントいただいた。

印刷・製本は友人の脇坂信三氏(ユアープランニング社長)が担当し、不慣れな私の編集・校正をサポートしてもらった。

本書は平成17年8月号から同19年10月号までの連載記事をベースに、加筆・補筆してまとめた。付録として、中田宏・横浜市長との対談(『ビジネス界』平成19年11月号掲載)を、お許しを得て加えた。

他にも多くの方々にお世話になった。ご厚意やお力添えに対して、心から感謝の意を捧げたい。

 

巻頭言

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まえがき

平成14年12月10日、定期健康診断を安佐市民病院で受けた。これまでいくらか注意を受ける場面があったものの、大過なくパスしてきた。

ところが、この時期はいつもと様子が違った。各項目の検査が流れるように進み、レントゲン室でバリュームを飲んだとき、担当医から「もう一度」と声が掛った。

翌日、病院から携帯に電話が入り、精密検査を受けるようにと指示。

検診の結果、胃がんと診断され、目の前が真っ暗になった。即刻、入院し、手術を受けるように告げられた。

当初は胃の3分の2切除で済むはずだったが年末年始の約束事を果たしているうちに、50日遅れの入院。再検査の結果、全摘出手術を必要とするまでに進行していた。悔やんでも始まらない。平成15年1月30日、手術を受けた。

がんのレベルは「ステージ3-

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巻頭言 ― 鍵山秀三郎

生涯を通じて出逢う人の数は、計り知れないものですが、その中にあってその人の心に思いを馳せ、お互いに心を通わせることのできる人は、僅かな人に限られます。

出逢った人同士、お互いを心に宿らせられる人は有限であるものです。それは世の中に価値ある人が少ないこともありますが、受け手である当人の感受性が乏しいことも大きな原因です。

相手が如何に偉大であっても、それを感じ取る感性に欠けていては、只の人としか見ることができません。受け手の感性が豊かであれば、平凡な人からさえ美点を見出すことさえできます。

木原伸雄さんは、平凡な中から非凡を見出し、美点として高めていく名人です。人は普段、他人の評価をする際に、身形や風貌などで決め付けることが多いのですが、木原さんは世間の評価基準に惑わされず、一瞬にしてその人物を見抜く鑑識眼を備えておられます。それは眼ではなくて、備わっている識見によるものでしょう。

ビジネス界に、24回も連載された「出会いに学ぶ生き方の極意」は、木原さんによって発掘され、未知の人びとに紹介された記録です。

1冊の本を読む時にも、その場の状況や登場する人たちに思いを馳せ心に描いていくと、その本が生き生きとしてきて著者の捜索意図が完成されます。ただ、目で活字を追っているだけでは、著作も育たないのです。それと同じように1人ひとりの人物に注がれる木原さんの眼は、その人の心に潜む想いにまで至り美点が表に表されるのでしょう。その人が生き生きとして、成長への道を歩み続けると確信します。

表題は「出会いに学ぶ生き方の極意」となっていますが、登場した人たちこそ、木原さんから『生き方』を学ばせていただいたと思います。

 

A」で、5年後生存率が36%と主治医のご託宣。胃と膵臓のすべてと、リンパ管の一部を切除。妻は「大丈夫、必ず完治する」と励ましてくれたが、内心では諦めていた。だが、生き続けたいと強く願ってもいた。

入院中に発刊した「世相・藪睨み」(A5晩56ページ)に続き、月刊経済誌『ビジネス界』主幹・弥山政之さんのご好意で「六十五歳からの挑戦・親子農業体験塾≪竹の子学園≫物語」を1年間連載、さらに「出会いに学ぶ生き方の極意」を2年間連載した。

平成20年1月30日、最終検査に合格し、生還を確認できた。定期健診で「異常なし」と告げられると安堵し、同時に翌日から癌細胞の転移と死への恐怖が襲う。その繰り返しの5年間は長かった。

やや大げさだか、生還記念として「出会いに学ぶ生き方の極意」の発刊を弥山氏に懇請したところ、快く引き受けてくださった。

本書の発刊にあたり、わが生涯の師と仰ぐ鍵山秀三郎師から、心温まる「巻頭言」をプレゼントいただいた。

印刷・製本は友人の脇坂信三氏(ユアープランニング社長)が担当し、不慣れな私の編集・校正をサポートしてもらった。

本書は平成17年8月号から同19年10月号までの連載記事をベースに、加筆・補筆してまとめた。付録として、中田宏・横浜市長との対談(『ビジネス界』平成19年11月号掲載)を、お許しを得て加えた。

他にも多くの方々にお世話になった。ご厚意やお力添えに対して、心から感謝の意を捧げたい。