続・世相藪睨み

No.19 ~もうすぐ政治の仕組みが変わる 菅直人の辞任が日本を良くする~

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”もうすぐ政治の仕組みが変わる 菅直人の辞任が日本を良くする”

東日本の震災復興や原発の事故処理に何一つとして有効な手が打てないまま、菅直人首相が辞意を表明した。そのいきさつや不信任案を巡るどたばた劇は、もはや政治とはいえない。面白くもない茶番に過ぎない。鳩山由紀夫前首相が亡霊のように蠢いて、すでに過去の人になった小沢一郎民主党元代表と語らって「菅、辞めろ!」の大合唱を始めた。うまく運びそうだったが、策士の菅直人にいっぱい食わされた。頭に血が上った鳩山由紀夫は「嘘つき!」「ペテン師!」などとわめき散らした。

宰相というものは一旦辞めるといった以上、○○をめどになどと屁理屈をこねてもすぐ辞める羽目に追いやられる。辞める宰相が居座っていたのでは、日本国の身動きが出来ない。六月末には間違いなく辞任するが、鳩山も小沢も一緒に消える。岡田克也幹事長、枝野幸男官房長官、仙石由人官房副長官などは菅直人と共に表舞台を去ることになる。これらの無能な権力亡者の顔を見ないで済むのは嬉しい。

無責任な野次馬の興味で申し訳ないが、次の首相は誰になるんだろうと考えたとき、詰まってしまった。今のところ民主党の代表が首相に選ばれる環境にない。自民との谷垣禎一総裁はひ弱い。残念ながら日本国には、危機に瀕した国政を担える政治家がいない。いずれ政策を中心とした新しい集団に生まれ変わるだろうが、六月末には間に合わない。

苦吟の末、亀井静香国民新党代表に思いが浮かんだ。瓢箪から駒となるかもしれない。しかし、しばらく機能しないだろうから、子どもが親を引っ張るしかないように思う。自分のことは自分でする時代に転換するということだろう。

多かれ少なかれ公共はささやかな善意で成り立っている

児童・生徒には美しい通学路を歩いて登校して欲しいと強く願っている。「美しいものを見れば、美しいものに子どもは似てくる」と生涯の師・鍵山秀三郎さん(日本を美しくする会・創立者)に教わったからだ。せめて通学路をきれいにしておけば、子どもらは明るい気持ちで校門をくぐると信じた。そして実践した。

CIMG1323_copy 口先だけでは誰も動かないことは百も承知。率先垂範すれば必ず同調者が現れ、すべての学校の通学路が毎週きれいになると思っていた。毎週水曜日の朝実施すると決め、平成十一年四月からスタートした。その都度、学校周辺の百戸に呼びかけのチラシをポストインした。すぐ効果が上がるほど甘くはなかった。

七校をローテーションで回っているから、十二年も続けると各校とも百回程度回ったことになる。その間、学校も行政も地域も、横断幕や懸垂幕などで清掃の大切さを訴えているが、呼び掛けには誰も応じなかった。唯一人五年前、学区外から大江雅雄さん(口田南在住)が参加してくださった。毎週水曜日、通学路を清掃しながら、元気で明るいあいさつを子どもらに届けておられる。改めて学校現場の荒廃に付いて考えさせられることが多い。

地域内には商店や住宅などに接しない道などが意外にも多くある。それなのに汚れが気になるところは見当たらない。大抵の場合、高齢者からの善意のプレゼントだ。目立つことを遠慮し、表彰などは拒絶する。地域の公共は名もないささやかな善意で成り立っている。彼らはひそかに人のために汗を流している。生活はつましいが心は圧倒的に豊か。善意が育つ地域があちこちに生まれると随分暮らしやすくなる。

トイレを磨くとほんとうに人生が変わるのか

植村花菜さんがNHKの紅白歌合戦で「トイレの神様」を熱唱して以来、トイレ磨き活動が見直されたようにも思えるが、実践になると別の問題のようだ。もともとトイレは昔から「4K」と言われ、臭い、汚い、暗い、怖い、の代名詞だった。近年では①謙虚な人になれる、②気付く人になれる、③感動の心が育まれる、④感謝の心が芽生える、⑤心が磨かれる、の自己研鑽「5K」として評価されるようになった。加えてトイレには「べっぴんさんにしてくれる女神様がいるんやで」と植村花菜さんが歌ってくれた。

CIMG1325_copy平成十一年一月九日の土曜日から平成二十三年六月四日の土曜日まで六百四十六週連続で、地区内のJR駅や公園のトイレ磨きを続けているが一向に人格が向上した自覚はない。まだまだ磨きようが足りないと思えば、これからの励みにもなる。

現在は八か所のトイレ付き公園の清掃を続けているが、地域ボランティアのみなさんのおかげで三か所も卒業させてもらった。その都度汚れたトイレのある公園を探しては加えている。いくらでもある。公園トイレの輝度は地域住民の公徳心の差が表れる。行政は二日に一度の割で巡回しているが、文字通りの巡回で何もしない。壁に貼ってある管理用紙に巡回時間を書いて捺印するだけ。

当たり前のことだが行政に頼っていては、暮らしが決して良くはならない。何とかしてくれるだろうと期待していても何も変わらない。行政はやらないというより出来ない仕組みになっている。自分たちで出来ることは自分たちでする以外、暮らしを良くする方法はない。自主・自立の心のレベル次第である。それが暮らしの価値を決める。

徒歩通勤で再び脚を鍛える百キロウォーキング参加のために

島根県益田市内でドライビングスクールを経営する『Mランド』主催の「百キロウォーキング大会」に参加申し込みをした。年齢を考えなさいと妻に忠告されたが、来年は後期高齢者の仲間入りをする。七十五歳ともなれば気も萎えるおそれもあり見栄を張って小さな決心をした。

決めたその日から徒歩通勤を始めた。往復で三キロほどだが、格好よく歩こうと意識すればするほど、身体に余分な負担をかける。帰宅は遅く朝は早いから日射病に罹る心配はない。だが、片側が法面の歩道の暗さにはびっくりした。省エネで街灯の照度が落とされ、街路樹の生い茂っている区間は、すれ違うまで相手の姿に気付けない。おまけに自転車は大半が無灯火だ。

街路樹と歩道脇の植栽がきちんと剪定されていれば、走る車のライトくらいは届く。役所には暮らしの安全のために整備して欲しいとお願いしているが、応える気配はない。「予算が足りないからねえ…」と嘆き節も聞こえるが、事故が起きてからでは取り返しがつかない。現場に足を運べば実情が分かるのではないか。

たまりかねて自前で剪定でもしようものなら「公の財産を勝手に処分するな」と文句を言いに来る。本来は公僕のはずなのに、封建時代の御領主様のように高飛車だ。それでも住民に危害が及べば重い腰を上げるのだろうが、予測して防御出来ないのは行政の悪しき習慣だ。

夜の街頭犯罪は街灯を明るくし、見通しを良くすることで大半が防げる。その基本を行政は怠っている。文句を言って安全がキープされる訳ではない。自分の身は自分で守るべきだ。そのためにゴミ袋と火ばしを武器に、徒歩通勤を続けている。