続・世相藪睨み

No.6 ~上のもんがぼんくらじゃけえ、いつも下のもんは泣かされよる~

No.6 ~上のもんがぼんくらじゃけえ、いつも下のもんは泣かされよる~No.6 ~上のもんがぼんくらじゃけえ、いつも下のもんは泣かされよる~

選挙の勝敗は地域の事情

 平成20年4月6日投開票された広島県安芸高田市長選挙の応援に、知人のご縁で巻き込まれる羽目になった。事前のマスコミ報道は現市長の引退を受けて、新人3候補による三つ巴の混戦と報じた。だが、私が応援した候補は、当選者の獲得した票の半分も得られず惨敗した。

 安芸高田市は旧高田郡の6町が合併し、平成16年に誕生した。初代の市長は旧高宮町長の児玉更太郎さんが、無投票で就任した。広域合併が市民に幸せをもたらしたかどうかは定かではないが、3万6千人の市民がわずか4年で3千人も減った。

 わがふるさとの広島市安佐北区白木町は、広島市に合併される前は高田郡に属していた。50年前の話になるが、青春時代は高田郡内・7町の若者が将来を熱く語り合った。児玉さんは当時の高田郡青年連合会長を務め、その後を私が引き継いだ。

 選挙の結果は元県庁の役人で、中央とのパイプを強調した候補が当選した。徒手空拳で市政改革を訴えた候補は、残念ながら主張が過疎の集落にこだましただけに終わった。

 同月27日に投開票された衆院山口2区の補欠選挙では、国交省の元官僚が中央とのパイプを訴えた官僚出身者が大敗を喫した。地域の事情が、結果に反映したと思える。

 「おとしよりをいじめるな」と高齢者の情緒に訴えた野党の候補者が、予想通り当選した。道路特定財源問題からガソリンの暫定税率、そして後期高齢者保険 へ批判を目まぐるしく変えた戦術が成功したようだ。後だしじゃんけんのごとき情緒的批判での勝利は、さほど威張れるものではない。むしろ恥ずべき稚拙さと いえる。政権交代なんて夢のまた夢。

変貌する地域格差に怨嵯の声

 バブル崩壊後の日本では、至る所で見る光景だが、安芸高田市とて例外ではない。青春の血を燃やした地域だけに、その激変振りには心が痛む。山あいの田畑に働く人の姿は見えない。山々にこだましていた子供らの歓声も聞こえない。のどかな田園風景は、至る所で山林化…。

 子供らが列をなして通学していた砂利道は、車の走らない高企画道路に変わっていた。さんざめいていた木造の校舎は、子供のいない豪華な鉄筋の箱に変身。更に心が痛んだのは崩れ落ちた廃屋、至る所に見られる廃校や公共施設の無残な姿。

 演説会場の少ない聴衆は、大半が高齢者であった。ふるさと再生を訴えながら、その妙手が見つからない歯痒さを感じつつ、改革を呼び掛ける虚しさを悲しく思った。

 やがて消えゆく限界集落の現実を知らないのか、政治家は相も変わらず無駄な道路や建物を作り続けようとしている。

 自民党は己の不手際により失効になったガソリンの暫定税率を、衆議院の再可決により復活させた。近所のガソリンスタンドでは、125円から163円へ38円も値上げした。これからガソリンを購入する時、市民の怨嵯の声は高まる。
 
 後期高齢者は2カ月に1度の年金を受け取る度に、その額が減少している事実に怒るだろう。さらに10月から医療費が3割負担になる層は、激怒の頂点に達するのではないか。更に多くの負担が待っている。

矛盾に満ちた国の財政政策

 道路特定財源を今後10年間維持する「道路整備費財源特例法改正案」を、政府与党は5月13日の衆院本会議で再可決する方針と報道されている。福田康夫 首相は来年度から道路特定財源を、一般財源化すると明言している。その決意であるなら再議決など不要だと思うが、雲の上の考え方はまったく理解できない。

 今国会の一連の混乱の原因は、国や地方の無駄遣いには頬かむりして取りやすいところから取る政策にある。お金が入らないと予算執行が出来ない事情を理解したとしても、同時に無駄遣いを改める具体策が見えてこないのは納得できない。

 サラ金で借金したり人を編してでもいいから、ともかく収入を増やして当座をしのぐ。ぜいたくで無駄な暮らしは、しばらく改めないと言っているのと同じだ。借金を返す当てもなしに借り続ければ、やがて一家心中でもしなければ人生のケリは付かない。

 税金の無駄遣いや官僚の不祥事はねじれ現象によって、白日の下に曝された。増税の負担に堪えるのはやぶさかではないが、悪徳政治家の私腹を肥やしたり官僚の特権維持のた
めなら御免蒙りたい。

 入るを計るより出ずるを制するのが先決ではないか。家計も国家財政も同じではある。たとえつましくとも、収入の範囲で暮らす-この生き方が健全と思うがどうだろうか。

 族議員や官僚に阿る自民党、政局一筋の民主党、役たたずの泡のごとき小政党、いずれも国民の方に顔を向けていない。一部を除いて恥知らずな政治家を選んだのは有権者だから、責任の多くは国民に帰するのか。

仁義なき戦い

1973年1月に封切された広島やくぎ抗争を描いた東映の「仁義なき戦い」の5部作が、30年の歳月を経てDVD化され根強い人気を保っている。

 若いときの菅原文太が主役のこの映画は、広島と呉を舞台にした実録であるが、第一部は大半が現地ロケで撮影されただけに懐かしい。

 1964年、草深い農村を出て広島で小さな商売を始めたが、当時は抗争の真っ只中であった。それぞれの映画で描かれたシーンや登場人物は、20歳代の脳裏に鮮やかに記憶されている。DVDをやっとの思いで購入し、見たが事件を思い起こしながら背筋が寒くなった。

 当時、暴力追放キャンペーンに命懸けで立ち上がった新聞記者、第一線で指揮を取った刑事も親しい間柄だけに、思い入れが深い。

 原作は飯干晃一のモデル小説だが、主人公が獄中で書き綴った原稿用紙700枚に及ぶ手記がベース。映画化するには多少のいきさつもあったようだが、中国 新聞が展開した「暴力追放キャンペーン」の『ある勇気の記録』は、1965年の菊池寛賞を受賞した素晴らしい歴史である。

 主人公は手記の最後に「上のもんがぼんくらじやけえ、いつも下のもんが泣かされよる」と書いた。

 やくぎの世界であれ、政治の世界であれ、上の人間が役に立たなければ、辛い目に遭うのはいつの時代でも弱いものである。

 今の日本の政治はまさに何でも有りの「仁義なき戦い」の様相を呈している。総理大臣の福田さん、民主党代表の小沢一郎さん、どちらもぼんくらの代表選手で役に立たない。

 ぼつぼつ国民の力でガラガラボンで出直しとならないか。やくざ抗争で命を散らした若い衆の「上のもんがぼんくらじやけえ…」という怨嵯が、墓場の底から聞こえる気がする。