続・世相藪睨み

No.7 ~働かなくなった人たち 働けなくなった人たち~

No.7 ~働かなくなった人たち 働けなくなった人たち~No.7 ~働かなくなった人たち 働けなくなった人たち~

 

公共の意識を変える

 『初夏になると歩道脇の植栽や雑草が伸び切り、街路樹の枝が通行人の邪魔をするほど垂れ下がる。

 地区のメイン通りの中央分離帯は、雑草が1mを越えるほどに生い茂り交通に支障をもたらしている。

 こうした状況は毎年のことながら、行政は気付かないのか手入れする様子もない。住民は不平・不満があるものの、何故かお役所の窓口ヘ届かない。届いているのかも知れないが現実には放置されている。

 日々迷惑を蒙るのはそこに暮らす住民であり、動きの鈍い役所の職員には痛痒がないのか。

 待っていても埒があかないので、今年も自分たちの手で周辺整備を始めた。長さ300mほどの中央分離帯の雑草を、始業前のわずかな時間を割いて鎌で刈り終えた。1日20分、10日間で見通しが良くなった。バイクも安心して走行できる。

 植栽の剪定はこれまで植木鋏を使っていたが、身体に負担が掛かるので電動鋏を購入し、作業した。とりあえず社屋やガレージの周辺80mだけ済ませたが、見通しが良くなり、車の出し入れの安全が確保できた。

 子供たちの背を越える雑草や植栽の現状は、地域全体にわたり美観のみならず、生活の安全を阻害している。誰の責任で整備すべきなのか。

 高度成長時代なら、行政に頼り切っていても何とかなった。残念ながら長い間の政治の仕組みが制度疲労を起こし、地域の末端まで手が届きにくくなっているのが現実だ。

 住民が快適で安寧な暮しを望むなら、自らの手で環境を整える時代に変わったことを認識したい。  すべてが出来るわけではないが、公共の維持は行政と市民の双方が力をあわせて果たさねばならない』。(地域情報誌・フォーラムより抜粋)

現場に足を運ばない弊害

 中央分離帯の雑草を刈り終えた1週間後、同じ場所を造園業者らしき一団が草刈作業を始めた。作業員8名、トラック3台、草刈機の騒音もにぎやかに働く。草がないのに刈っている。あきれながら仕事ぶりを見ていた。雑草が威張っている他の中央分離帯は手付かずで残っているのに…。しかも空缶、ペットボトル、ポリ袋、タバコの吸い殻などは放置したまま。序でに片付ければいいのにと思うが、雑草の処理とゴミの処分は、担当する部署が違うからなのか。呆れ返るばかり。

 業者に責任は問えない。発注者から命じられるままに作業をするのが、公共事業を請け負う彼らの立場だからである。工事を発注する側が現場を熟知していれば、このような税金の無駄使いはしないだろう。

 大抵の業務は冷房のよく効いた室内で、パソコンのキーボードを叩いていれば書面上は済むのかも知れない。しかし、現場に足を運ばない分、ムダがムダを生み続ける。  IT機器の進歩は事務作業量を軽減させたが、市民生活や現場状況を見えなくしている。残念ながら「事務処理」は出来ても、「現場対応」にムダが激増する結果になる。一見機能的に仕事を進めているようだが、パソコンには見えない部分が多すぎる。自分の目で現場を確かめなければ、市民の暮らしに役立たないし、税金の無駄遣いは止まらない。

教育効果を阻害している現実

 学校教育の成果をあげる有効な手段は、教師と子供たちが接する時間を増やすことに尽きる。ところが、現実には次々と新しい制度が設けられ、教師の貴重な時間を奪っている。

 結果として子供たちと接する時間が減り、教育効果を上げようとする諸制度が、皮肉なことに足を引っ張っている現状。嘆かわしい。

 学校の教育活動や成果を検証することで、教育の改善を意図して学校評価が実施されている。これまでの「自己評価」に加え、平成17年度より「外部評価」が努力義務として課せられた。現在、公立の小、中、高校の約8割が、外部評価による学校評価を実施していると伝えられる。

 外部評価制度の理念と目的は立派だが、学校教育の役に立っているのかと言えば、はなはだ怪しい。

 外部評価は各学校の「学校協力者会議」で行われるが、委員の構成と会議の運営が心許ない。

 制度の善し悪しは、結果として役に立つか立たないかで決まる。

 協力者会議は「評価部会」と「提言部会」で成り立っており、学校経営目標に添って集計されたアンケート結果を検証しながら論議する。

 制度がスタートして複数校の委員を委嘱されている。子供の将来に関心はあるが、識者でもないし、教育現場を見る機会も少ない。したがって、学校教育の改善に役立つ的確な評価が出来よう筈もなかろう。  気の毒なのは学校側の委員に選ばれた教師たちである。児童・生徒、保護者、教師らを対象に実施する膨大なアンケートの集計作業に、貴重な教育の時間の一部を奪われてしまった。教師たちの切実な悲鳴が聞こえてくる。「子供らと一緒に過ごす時間を返してくれ!」。

仕事は人間がするもの

 行政や教育の現場では、言うまでもなく人が主役でなければ機能しない。ところがパソコンなどの目覚しい進化が、業務のシステム化を超えて人間の領域まで侵し始めた。

 市民生活の現場で働くべき公務員が、パソコンのキーボードを叩く業務に忙殺されている姿はおかしい。

 本来、教室や運動場で子供たちとコミュニケーションすべき教師たちが、教育現場から離れた場所で働いている現実は厳しい。

 文明の利器は便利であるが、本来人間が持っていた多くの能力をスポイルしてしまった。数字を打ち込めば計算しなくても、自動的に求める結果が得られる。判断すべき分野までパソコンに頼る習慣が生れた。

 汗水流して身体を動かさなくても働いている錯覚を起こさせる。だから水が低きに流れるように、本来の働きを追いやってしまったのだ。

 パソコンを駆使すると手作業に比べて大幅に時間短縮が出来るだけに、不要に近い統計や文書まで求められるようになった。複雑な資料などが簡単に出来るといっても、それなりの時間は必要である。

 山積みされている膨大な統計資料など、屋上屋を重ねるようなものでさほど役に立っていない。

 その結果、本来の仕事に使うべき時間が足りなくなっている。働きたくても、働く余裕がなくなってしまった。機械主役の仕事は達成感を得られないし、人間関係をきしませ機能しなくなる。

 働かなくなった人たちも働けなくなった人たちも、本当は、働きたいに違いない。天から与えられた能力や時間を再起動して、人間主役の座を取り戻すべきだ。

2008.10