平成27年8月16日(№6814) 昭和20年
投稿日:2015.08.16
昭和20年
過ぎてみれば悲惨な体験も懐かしい思い出になる。人間というものは辛いことは早忘れする生き物らしい。とは言うものの昭和20年は辛い体験の多い年だった。軍港のある呉市に住んでいたが、毎日のように空襲警報が発令され、焼夷弾に間断なく見舞われた。その都度、防空頭巾を被って防空壕に逃げ込んだ。今考えればあんなちゃちなものは役に立たない。
3月26日、父は沖縄特攻作戦に従事するため駆逐艦に乗って出征し、4月7日乗船していた駆逐艦浜風は魚雷にやられ沈没。父は帰らぬ人となった。38歳。母と子供3人は父のふるさと・現安佐北区白木町志路に疎開。芸備線・井原市駅に降り、8㌔も山奥の父の実家に向かう。背中と両手にいっぱいの荷物を持ってどうやってたどり着いたか記憶はない。
当時は8歳、弟は6歳と2歳、母は31歳。ともかく歩いた記憶しかない。途中で道がなくなり崖を伝って降りた記憶は鮮明だ。何時間かかったか分からないが、なんとか到着した。今の帰省とは違う。お荷物が帰ってきたのだから歓迎されるはずもない。母は飢えを凌ぐために食料の調達に懸命だった。7月に弟が生まれたが。栄養失調で大晦日に亡くなった。
8月6日は登校日だった。南の方に落下傘が降りていた。まもなく閃光がひらめき、黒い入道雲がいっぱいに空を覆った。後から原子爆弾と知り広島の惨状が知らされた。学校にはたくさんの焼けただれた人が担ぎ込まれた。教室は被災者でいっぱいになった。多くの人が亡くなったと聞く。農家なのに食べるものがない。飢えの状態は呉市の暮らしと変わらない。
あれから70年、辛いことはいっぱいあったが、すべてをまっとうに凌いできた。母をはじめ多くの人に助けられた。